感染症再拡大によるコロナ禍が続いています。国会でのコロナ対策の検討にも腐心していますが、国際情勢、通商問題からも目が離せません。以下、本文に登場する略称の日本語標記です。EPA「経済連携協定」、TPP「環太平洋パートナーシップ協定」、RCEP「地域的な包括的経済連携協定(東アジア地域包括的経済連携)」、USMCA「米国・メキシコ・カナダ協定(新NAFTA<北米自由貿易協定>)」です。
まもなく12月。今年の10大ニュースを考える時期が来ました。トップは間違いなくコロナ禍。その影響で少々影が薄くなっていますが、ブレグジットも大ニュースです。
1月末をもって英国はEUから離脱しました。激変緩和のための移行期間延長を求める期限は6月末でしたが、英国は申請せず。12月末をもって移行期間も終わります。
英国は新たな通商政策の第一歩として日本とのEPAにスピード交渉で9月に合意。日英EPAは現在国会で審議中ですが、来年1月1日から発効する予定です。
交渉前に英国政府が国民向けに公開した「戦略的アプローチ」と題する文書には、日英EPAはTPP 参加へのステップと明記されています。
日英EPA発効後はTPPへの参加を目指し、アジアとの貿易拡大を企図しているということです。
一方、今月15日にRCEPが合意に至りました。日本にとって中国との初の自由貿易協定。その中国の習近平国家主席は、20日に開かれたAPEC首脳会議で「TPPに加入することを積極的に検討する」と発言。俄かにTPP人気が高まっています。
中国の意図は容易に想像がつきます。米国抜きのRCEPに合意したので、次は米国抜きのTPPに参加し、アジアにおける主導権を握り、米国を孤立させる狙いです。
しかし、日米同盟を基軸とする日本が米国抜きで中国を含むTPPを是認することは様々な問題を惹起します。
TPP加盟国を拡大するならば、英米両国が中国に先んじること、及び中国が加入する段階までにTPPの内容を拡充することが肝要です。
拡充すべき内容は多岐に亘りますが、最も重要なのはデジタル分野の規制。つまり、中国が他国に強要している中国国内へのコンピュータ関連設備の設置や技術移転を抑止する内容が含まれていることが必須です。
デジタル分野はWTOに統一ルールがなく、TPPや日EUEPA、USMCA、日米デジタル貿易協定が先行。中でも、下記のTPP三原則はひとつの基準となりました。
すなわち「国境を超える情報移転」「コンピュータ設備の自国内設置」「ソースコードの開示・移転」の強要禁止です。
さて、そういう状況下での日英EPA。英国がTPP加盟を求める際には、最低限日英EPA並みのデジタル分野規制をTPPに反映させる見直しが必要です。
中国がそれを飲めればTPP加盟というシナリオが見えてきますので、日英EPAのデジタル分野規制の内容が適切であるかどうかが重要なポイントとなります。
RCEPにも第10章6条に技術移転等の強要禁止の条文が入りました。大きな前進ですが、まだ第一歩。日英EPAに比べれば全く不十分です。
しかし、その日英EPAの条文もよく読むと気になる点が少なからずあります。主な点のみ指摘しておきます。
協定第8章にデジタル分野の規定があります。71条の用語定義において、コンピュータ関連設備としてサーバー及び記憶装置を限定列挙しています。
しかし、加速する技術進歩やインフラの実態を鑑みると、サーバー及び記憶装置「等」として幅広く規定するのが適切と考えます。限定列挙は将来の懸念につながります。
73条では、ソフトウェア関係の貿易の条件として、当該ソフトウェアのソースコード、及びそのアルゴリズムの移転、アクセスを要求してはならないとしています。
しかし73条の規定は、相手国の規制機関や司法当局の要求は認めており、しかも執行活動のみならず「調査」「検査」名目も可としています。
さらに同条1項aで、自由に交渉された契約や政府調達においては、移転、アクセスを自主的に付与することを認め、しかも1項bで政府権限としての活動を除外しています。
日英EPAのこのような規定がTPPに反映され、これをもって中国の参加の前提とする場合、潜在的な問題が多いと言えます。
84条の情報の越境移転、85条のコンピュータ関連設備設置、86条の暗号装置規定でも同様の懸念があります。
ちなみに、71条の用語定義、及び73条の該当条文においても、ソースコードの定義が定められていません。
国会で日英EPAの審議をしている中、そして中国も参加するRCEPが合意した直後の19日、中国外務省報道官が物騒な発言をしました。
中国が香港立法会(議会)に圧力をかけていることに米英等5ヶ国外相が懸念を発表したため、「中国内政問題に口出しすることに強烈な不満と断固反対を表明する」と発言。
これだけであれば何度も聞いている内容ですが、当該5ヶ国が機密情報を共有する「ファイブアイズ(以下、FE)」を構成していることに絡め、「中国の主権、安全、利益を損なうなら、目を突かれて失明しないよう注意しろ」と言及。
FEは今年夏も話題になりました。当時の防衛相が「日本もFEに加盟してシックスアイズと呼ばれてもいい」「椅子を持っていきテーブルに座って『交ぜてくれ』と言うだけの話」と述べ、日本のFE加盟は簡単だという趣旨の発言がニュースになりました。
近年、日本とFEの間の協力は進んでいますが、上記の発言は的確とは言えません。日本がFEに加盟するには厚い壁があります。
FEはUKUSA(United Kingdom United States of America<ウークサ>)協定に基づく機密情報共有の枠組みの俗称です。
米国家安全保障局(NSA)、英政府通信本部(GCHQ)、加通信保安局(CSE)、豪信号総局(ASD)、ニュージーランド政府通信保安局(GCSB)が世界中に張り巡らせた通信傍受設備から得た情報を共有・相互利用するための協定です。
2010年に関連文書が公開され、FEの存在が明らかになりました。FEのコンピュータ及び通信ネットワークはエシュロン(Echelon)と呼ばれています。「梯子の段」を意味するフランス語が語源のようですが、ネーミングの意図はよくわかりません。
第2次大戦中、米英軍は共同でドイツ軍暗号機エニグマを解析。この協力関係は1940年に始まり、1943年に米英両軍の間で協定が結ばれました。
協力関係は戦後も続き、1946年に対ソ冷戦を睨んで協定を再締結。1956年スエズ動乱で米英は対立しましたが、協力関係は維持。1948年にカナダ、1956年にオーストラリア、ニュージーランドが参加し、5ヶ国になりました。
5ヶ国は言語が共通であり、文化も似ているために関係は緊密。FEはそうした同質性と信頼の蓄積が基盤になっています。
2018年、日独仏が対中国を念頭にFEと連携する枠組みを構築。2020年には日韓仏とFEの枠組みも発足しました。
こうした状況が防衛大臣の軽口につながったのかもしれませんが、日本がFEに正式参加するには障害があります。
第1に、日本はスパイ活動に対する防御力が弱いこと。その定評を生んだのはレフチェンコ事件です。
冷戦時代にKGBのスパイとして日本で活動したレフチェンコ。1979年に米国に亡命して暴露本(タイトル「On the Wrong Side」)を出版。
その中で「日本はスパイ天国」と述べ、ソ連は主要新聞社、外務省、与野党の中にエージェントを何人も雇っていたことを暴露。
2015年に特定秘密保護法が制定されたものの、スパイ防止法、及び人物信頼度を認定するセキュリティークリアランス(適格性評価)制度もなく、サイバーセキュリティー技術も劣後しています。
FEは日本の省庁や企業を通じて機密情報が漏洩することを懸念しています。こういう状況ではFEが日本を迎え入れることはないでしょう。
第2に、日本の情報収集能力が低いこと。諜報の世界はギブ・アンド・テイク。FEが新たな情報を入手できなければ、日本を参加させる意味はありません。
日本の通信傍受機能は地政学的に東アジアに限定されているほか、人的情報網もFEに比べると脆弱。
日本がFEに提供できる情報価値は、日本をFEに加えることで拡大するセキュリティーリスクを下回っていると見られているでしょう。
第3は価値観。FEは民主主義と人権保護を実現することを外交的価値及び戦略として共有し、中露のような強権国家、権威主義体制と対峙しています。
例えば上述の香港問題。FE各国は強く非難し、制裁措置を行い、香港人を保護。それが中国報道官の過激な発言を誘発しました。
日本は香港問題について「重大な懸念」を表明するのみ。中国と対峙するより、香港の混乱に乗じ、香港を脱出する金融機関の誘致等に腐心していると見られています。
さらに対露外交。FEはロシアを深刻な脅威と見做し、2014年のクリミア半島併合に強い制裁を科しました。
その間、安倍首相はプーチン大統領との蜜月をアピールし、自民党はプーチン政権与党である統一ロシアと協力協定を締結。
FEと日本の価値観ギャップを決定づけたのは2018年スクリパリ事件への対応。ロシア工作員が英国でスクリパリという元ロシアスパイを殺害するために神経剤を投与。スクリパリと娘は生き延びましたが、市民1人が巻き込まれて死亡。
この事件を非難し、FEを含む29ヶ国が合計153人のロシア外交官を追放。英国は日本にも制裁に加わるよう要請したものの、安倍首相は拒否。日本はG7の中で唯一ロシア外交官を追放しませんでした。
FEには日本が異質な国と映っているでしょう。FEに加入するには厚い壁があります。国連憲章には、日独伊を想定した敵国条項も残っています。
FEは敵対国のみならず、同盟国の情報も盗聴します。EUは米国がエシュロンを使ってエアバスの技術情報を盗んだと指摘。1995年の日米自動車交渉では、米国が日本の自動車メーカー幹部の電話を盗聴していたことが知られています。
今年2月、独公共放送ZDF、米ワシントンポスト、スイス公共放送SRFの調査報道によって、中央情報局(CIA)と独連邦情報局(BND)が1970年代にスイスの暗号機器メーカークリプト社を密かに買収し、同社が各国政府に売った無電通信暗号化装置を介して20年以上に亘って日本を含む他国の通信を傍受していたことが明らかになりました。
豪州キャンベラにある戦争記念館には、日本に関する1971年の外交文書が公開されています。タイトルは「1980年代の対潜水艦戦」。冷戦終結に伴い秘密指定が解除されたために公開。FEが豪国防相に提供した文書です。
文書には「日本は1980年までに少なくとも1隻の原子力潜水艦の運用を始める」「日本は豪州の潜在的脅威であり、脅威の一部が潜水艦である」と記されています。
この時期、日本は「防衛計画大綱(51大綱<1976年>)」や「日米防衛協力指針(ガイドライン<1978年>)」を策定。ソ連の脅威に対抗して日米同盟強化を進めていた最中に、米国を含むFEが日本をどのように見ていたかが伺えます。国際社会の現実です。
自国の利益を犠牲にして他国の利益を守る国はない。このことを国会で安倍首相には何度も伝えました。日米同盟は日本の安全保障のための手段であり、目的ではありません。
1993年、米国の政治学者ハンティントンが「文明の衝突」というタイトルの論文を雑誌「フォーリン・アフェアーズ」に発表。
冷戦後の国際紛争は文明間対立が原因となり、文明と文明が接する断層線(フォルト・ライン)で紛争が激化しやすいと指摘。2001年の同時多発テロ事件やそれに続くアフガニスタン紛争、イラク戦争を予見しました。
ハンティントンは、21Cは西欧文明が中華文明、イスラム文明に対して守勢に立たされると予測。西欧文明の基盤(領土、生産力、軍事力等)は縮小すると予測しています。
日本は世界の変化に対処するためにインテリジェンス能力を高めることが必要ですが、それはFEに入ることではなく、自ら情報を収集し、創造することです。FEとの連携は重要ですが、「情報をください」という依存体質では相手にされません。
インテリジェンス(Intelligence)とは、収集された情報を加工、統合、分析、評価及び解釈して生産される成果物(プロダクト)であり、安全保障政策を企画立案・執行するために必要な知識と定義されます。
インテリジェンスは対象となる情報源によって分類されます。ひとつはヒュミント(Human Intelligence、HUMINT)」。人的情報源から得られるインテリジェンスです。
シギント(Signals Intelligence、SIGINT)は会話や通信の傍受によるインテリジェンス。FEの主戦場です。
イミント(Imagery Intelligence、IMINT)は画像から得られるインテリジェンス。衛星や偵察機等を駆使して収集される画像も含まれます。
公開情報を有効活用するのがオシント(Open Source Intelligence、OSINT)。最も簡単かつ低コストで集まり、分析価値、創造性の高い分野です。
オシントとは報道や研究論文等の公開情報から生産されるインテリジェンス。世界中のニュースやレポートを丹念に収集、分析すると、様々な知見が得られます。
インテリジェンスのレベルを上げていくには、他の文明圏のメディアや出版物、研究論文等を高度に分析する能力が求められます。
狭義の安全保障に限らず、経済戦略や通商交渉、技術開発等、あらゆる分野でオシント能力を向上させれば、情報を創造することができます。
日本のインテリジェンスは、FEばりのシギントやイミントではなく、実はヒュミントやオシントこそ欠けています。
(了)