国会は明日が会期末。この国会では2021年度補正予算案は提出されませんでした。国民の皆さんのご協力とワクチン接種進捗でコロナ禍が収束すれば必要ないかもしれませんが、経済のK字化(良い先と悪い先の二極化)が極端に進んでいます。業種や産業、対象者限定の肌理細かい経済対策が必要です。それに加えて、全体としてのマクロ経済政策の戦略も問われます。今秋以降は、成長とインフレのトレード・オフ関係に関心が集まると思います。
高圧経済は、国内の需要が供給を上回り、消費や投資が活発化し、需要圧力が高まる傾向にある経済を指します。その結果、インフレ率が上昇したり、労働需給が逼迫するような展開を想定しています。
高圧経済政策はそうした状況を生み出すために、財政拡大や金融緩和を継続し、多少の過熱状態は是認。その結果として、インフレが進行する可能性があります。
高圧経済は1950年代に提唱された概念です。1956年にヘンリー・ウォーリック(1914年生、88年没)米エール大教授が「経済学者は経済の高圧運営と低圧運営の提唱者に分類できる」と言及し、高圧経済(High-pressure economy)という言葉が生まれました。
ウォーリックは1974年にFRB理事に就任。しかし、高圧経済を推奨したわけではなく、むしろ逆。しばしば強硬なインフレ抑制論者として注目されました。
ウォーリックはベルリン生まれのユダヤ人。幼い頃に第1次大戦後のハイパーインフレを経験し、ナチス下のユダヤ人迫害を逃れて1935年に米国移住。41年よりニューヨーク連銀に勤務したほか、エール大教授、財務長官補佐官、大統領経済諮問委員等を経て、1974年にFRB理事に就任。
FRB理事としてのウォーリックは当時経済学で話題になっていたインフレ容認的な「オークンの法則」を批判。高インフレ回避こそ雇用安定につながると主張しました。
さて、ここで登場した「オークンの法則」。筆者も学生時代に遭遇しました。
アーサー・オークン(1928年生、80年没)は米国の経済学者。ウォーリックがFRB理事に就任する前年(1973年)公表の論文で「高圧経済は労働市場で弱い立場にある若者や女性に恩恵をもたらし、経済全体の生産性を高める」と主張しました。
経済成長率が高まると失業率が下がる現象に一定の関係を見出したのが「オークンの法則」。実証データの分析から成長と雇用の負の相関関係を発見したので「オークンの経験則」とも言われます。
オークンは、高圧経済の下では企業が賃金上昇を抑制しつつ、人手不足に対応することを想定しています。そのため、それ以前の状況では雇用されない若者や女性が雇用機会を得て、技能を磨くことにもつながると考えました。
オークンが論文を公表した1973年に第1次石油危機が発生。その後の急激なインフレによって「オークンの法則」に対する関心も徐々に薄れていきました。
それから40数年後、リーマン・ショック発生後の2000年代末から2010年代。強力な金融緩和がなかなか景気刺激に至らない状況が続く中、2016年にイエレンFRB議長が講演で「オークンの法則」に言及。再び注目されるようになりました。
その後、2019年にFRBは「オークン再訪」という題名の論文を公表。その中で「オークンの分析は現在も妥当」と指摘。以後、「オークンの法則」はFRBの金融緩和と格差問題への対応の理論的支柱のひとつと位置づけられていた中で、コロナ禍が発生しました。
3月、バイデン政権は1.9兆ドル(約200兆円)の経済対策を発表。イエレン財務長官は「2022年には完全雇用になる」と唱え、インフラ投資計画は「米国雇用計画」と命名されました。
同時に、パウエルFRB議長も2023年末までゼロ金利を続ける姿勢を示し、イエレン財務長官と足並みを揃えて「雇用改善を追求する」と意気込んでいます。
バイデン大統領、イエレン長官、パウエル議長は、高圧経済政策を意識しているようです。
巡航速度を超える成長率の実現、自然失業率を下回る失業率。こうした経済状況を実現するために多少の過熱状態を容認し、その結果として、格差問題の是正、労働者の技能向上、労働力の質・量の改善等を実現。これが高圧経済政策の枠組みです。
要するに、インフレに対する警戒を緩め、多少のインフレを容認してでも景気刺激策を続けること。それが高圧経済政策であり、特殊なことを主張しているわけではありません。
イエレン長官もパウエル議長も物価上昇は局所的、一時的と楽観視しています。経済構造は70年代から一変し、かつてのような高インフレは起こりにくいというのが論拠です。
直近FOMC(連邦公開市場委員会)は、2021年第4四半期にインフレ率は前年比2.4%に上昇するものの、2022年には2%に鈍化すると予想しています。
たしかに高インフレ必至とも言えませんが、「オークンの法則」の再評価と同時にウォーリックの懸念にも留意が必要です。
ローレンス・サマーズ元米財務長官は高圧経済政策に警鐘を鳴らしています。曰く「第2次大戦時に近い規模の経済刺激が、長い間経験しなかった種類のインフレ圧力を引き起こす可能性がある」。
高インフレが生じない場合でも、金融バブルを助長するリスクはあります。その予兆は徐々に顕現化しており、昨年のロビンフッダー騒動は記憶に新しいところです。
3月には、米投資会社アルケゴス・キャピタル・マネジメントを巡る巨額損失問題が浮上しました。
その背景にあった規制の隙間をついた極端なレバレッジ取引や金融機関のリスク管理の緩み等は、過去のバブル末期の現象と共通します。
ゴールドマン・サックスのブロック取引(証券会社間の大量取引)による大量売却が端緒となり、モルガン・スタンレー等が追随。
アルケゴスは保有株式下落で打撃を被り、ゴールドマンを通じて100億ドル(約1兆円)以上の株式を投げ売り。アルケゴスと取引関係にあった野村ホールディングスにも影響が及び、日本でも物議を醸しました。
リーマン・ショック前もゴールドマンはウォール街の中でいち早く株式売却に走りました。今回もゴールドマンのブロック取引による大量売却は気になるところです。市場変調の兆しとも考えられます。
なお、アルケゴスが保有していた百度(バイドウ)等中国銘柄売却の動きは、米中対立の影響でこれら銘柄が米証券取引所で上場停止となる可能性に対応した政治的背景も取り沙汰されています。真相はわかりません。
証券市場だけでなく、商品市場にも変調が生じています。インフレとの関係で注目すべきは国際商品市況、特に原油です。
指標であるWTI先物は足元では1バレル70ドルを超えています。コロナ禍が本格化し始めた昨年4月には一時マイナス40ドルとなっていたことが信じられない値上がりです。
背景には、米欧中を中心とした世界経済回復に伴う原油需要持ち直しもありますが、主因は過剰マネーが石油市場に流入していることです。
こうした環境は、プライスリーダーであるOPECプラスの下心もくすぐっています。
米国のシェール革命を潰そうと画策したOPECは2014年末に需給調整を放棄して安値競争を仕掛けたものの、無残な失敗に終わりました。
そこで2016年、OPECはロシア等OPEC非加盟産油国と共闘してOPECプラスを構築。石油生産に占める世界シェアはOPEC30%強であるのに対し、OPECプラスは50%超。シェアが高まった分、原油価格への影響力も強まりました。
そして日米欧主要国によるコロナ禍対策としての金融緩和、それに伴う過剰マネーが原油価格に影響。この環境を利用して結託して価格引上げを目論んでいる状況です。
高圧経済政策は壮大な実験と言えます。この挑戦は、コロナ禍及びコロナ後の世界経済を考えるうえで、従来の常識の正当性に疑問を投げかけています。
成否は誰にも予測できませんが、過去の教訓に関心を払うことは必要でしょう。端緒となったオークン自身も、無計画、無定見な景気過熱には反対していました。
「オークンの法則」論文発表前年(1972年)の失業率5.6%に対して、4%程度の失業率を目指し、職業訓練や賃金抑制策等とセットで人々が漸進的に質の高い仕事に移る姿を描いていました。
高圧経済政策に関心が高まる中、6月4日、日経新聞が戦前の高橋財政に関するコラムを掲載。タイトルは「未完に終わった積極財政、高橋是清の無念」。概要は以下のとおりです。
「日本のケインズ」と呼ばれ、首相や蔵相を務めた高橋是清は積極財政で大恐慌から日本を救いました。真骨頂は1931年末発足の犬養内閣での蔵相時です。
1929年世界大恐慌、1931年満州事変等の影響で経済は深刻なデフレ下にあり、高橋蔵相は金輸出を停止し、通貨発行量をいくらでも増やせる管理通貨制へ移行。円安が進み輸出が伸び、日銀引受による国債大量発行で歳出を大胆に拡大。
その効果で日本は世界に先駆けて大恐慌から抜け出し、政府が需要を創出する高橋財政はケインズ理論の先取りと言われました。
概ね以上のような文脈であり「今こそ高橋財政的な大胆な財政出動が必要」という読後感が残るコラムでした。
このコラムと同様の趣旨の主張は今を遡ること8年前、2013年日銀人事の前に副総裁候補であった岩田規久男氏が展開。
副総裁ポストを射止めた岩田氏は、総裁に就任した黒田氏とともに「2年間でマネタリーベースを2倍にして物価上昇率を2%にする」「絶対にできる。できなければ職を辞す」と啖呵をきっていましたが、結果はご承知のとおりです。
今回の新聞コラムや岩田氏の主張は高橋財政の史実を誤解または歪曲しています。詳しくはメルマガ378号(2017年2月23日)に記しましたが、概要は以下のとおりです。
デフレと不況脱却のために高橋蔵相は大胆な財政政策と日銀による国債引受を断行。しかし、当初から「3年間が限界」ということを吐露していました。
3年目の1935年夏、高橋蔵相は翌年度の予算と国債発行縮減方針を発表。年末、方針どおりの予算原案を策定。軍事費も例外ではありませんでした。
その結果、1936年2月26日、高橋蔵相は「二・二六事件」で軍部に暗殺されました。以後、軍部に服従する蔵相と日銀総裁が登場して太平洋戦争に至ります。
しかも、黒田日銀が行っているマネタリーベース増加規模は、高橋財政どころではなく、戦時下の1941年から45年当時を遙かに上回る状況です。
つまり「今こそ高橋財政を」という主張は事実誤認です。正確に言えば「スーパー高橋財政を2013年からずっとやってきたが、それでも上手くいかない中でコロナ禍に直面。さて、どうするか」というのが適切な表現でしょう。
コロナ禍で主要国、とりわけ米欧諸国は財政拡大と金融緩和の継続を選択しています。バイデン政権は5月28日に公表した22会計年度(21年10月から22年9月)でコロナ禍前を3割上回る6兆ドル(約660兆円)超の歳出を議会に求めました。
FRB議長から財務長官に転じたイエレン氏は「アクト・ビッグ(大胆にやろう)」と述べ、大統領を支えて積極財政を推進。雇用を回復させ、経済を成長軌道に戻す高圧経済政策を掲げています。
パウエルFRB議長はイエレン議長時代のFRB理事。イエレン長官の積極財政をFRBの金融緩和で支えています。これが米国の高圧経済政策の基本構図です。
では日本も同じことをやればいいのでしょうか。その判断のためには、過去8年間の「スーパー高橋財政」下の日本の現実を直視する必要があります。
日銀の試算によれば、その間の金融緩和による実質成長率押上げ効果は年平均0.9%から0.3%、CPI押上げ効果は同0.6%から0.7%。実績値を鑑みると、金融緩和抜きではゼロ成長、ゼロインフレだったことを意味します。
別の角度から見ると、1%程度と推定される長期自然利子率を日銀による国債購入でほぼゼロ%に押下げ、長期金利1%分の金融緩和を行っていたということです。
日銀の分析によれば、金利低下の波及効果は、企業等の資金調達コスト低下33%、株価上昇36%、為替円安20%です。
これらの試算、分析から、技術革新、起業、生産性向上等による実態経済の伸びはほぼ皆無であったと結論づけられます。
この点は、高圧経済政策の論拠とされる「オークンの法則」においても重要です。オークンの分析では、3%の産出量増加は、1%の失業率低下、0.5%の労働力率低下、0.5%の1人当り労働時間増加、1%の時間当り産出量(労働生産性)増加に対応していました。
オークンの観察に基づけば、実質的な技術進歩や企業の成長がなければ、高圧経済政策の効果は失業率低下、労働力率低下、労働時間増加に吸収されるだけです。
高圧経済政策による効果が好循環するためには、賃金上昇による需要増、ディマンド・プル・インフレ、技術革新等による企業の実質的成長が必要です。
それらが伴わない高圧経済政策の継続は困難であり、米欧中諸国の成長と進歩に取り残され、サマーズ元財務長官の懸念、すなわち制御できないインフレという予想が的中することになるでしょう。
日本は単純に米国の真似をすれば良いという状況ではありません。繰り返しになりますが、既に「スーパー高橋財政」を8年以上実施してきた中でのコロナ禍です。工夫が必要です。
(了)