参議院選挙が終わりました。残念なことに、先週8日、安倍元首相が凶弾に倒れ、ご逝去されました。ご冥福をお祈り申し上げます。如何なる理由があっても、このような暴挙は許されません。平和な社会を創っていくために、全力を尽くします。要人警護のあり方、選挙活動のあり方について、「日本の常識、世界の非常識」という点については、改善、見直しが必要です。
奈良県警本部長は、事件翌日夕方になって初めて会見。警護の不備を認め「警察官人生で最大の悔恨、痛恨の極み」と語ったと報道されています。
事件当日夜の会見は警備部長ほか3名が対応。奈良県警生え抜きと推測します。生え抜きに会見対応を委ね、質問が責任論や警備体制不備の可能性等に及ぶと回答留保。
本来は県警本部長が対応し「現に銃撃事件が発生して元首相が死亡したことから警備責任者としての責任は免れないが、まずは捜査を尽くすことに全力を挙げたい」という文脈の発言を聞きたかったと思います。
今回の事件に接し、僕以上の世代には1981年3月30日に起きた米国レーガン大統領暗殺未遂事件を想起した人が多いと思います。
大統領を襲撃したテキサス工科大学生ジョン・ヒンクリーは3月29日にワシントン到着。ワシントン・ポスト紙で翌30日の大統領の予定を確認。今回、犯人がSNSで安倍元首相の日程を確認した展開と似ています。
ヒンクリーは当初、大統領がヒルトンホテル会議場での講演する際に銃撃することを計画。しかし、他国首脳も出席していたために会場内警備が厳しく、会場内での襲撃を断念。多くの群衆が取り巻くホテル退出時を選択しました。
これも、犯人が前日の岡山での室内演説会での襲撃を計画したものの、持物検査等の警備が厳重なことから断念し、翌日の奈良での街頭演説時を狙った展開と似ています。
講演を終えた大統領はシークレット・サービスや警護の警官とともにホテル出口を出て大統領専用車に向かおうとした際、ヒンクリーが回転式拳銃から6発(装填全弾)を発砲しました。
銃弾は専用車の車体に当たって跳ね返り、大統領の左胸部に命中。ブレイディ大統領報道官、及びワシントン首都警察の巡査、シークレット・サービスの4人が被弾しました。
ヒンクリーはその場で取り押さえられましたが、強く抵抗することもなく、身柄を拘束されました。この展開も今回の犯人逮捕の様子と似ています。
この間、約10秒。一部始終が複数のテレビカメラによって生中継され、大学生だった僕もニュース映像に釘付けになったことを記憶しています。
一連の映像は前年開局のCNNが繰り返し放映。この報道を契機に、CNNはニュース専門放送局としての地位を確立しました。
大統領はシークレットサービスによって専用車に押し込まれ、直後は無傷と思われたために即座にホワイトハウスに向かったそうです。
しかし、車中で大統領が吐血。胸部に被弾していることがわかったため、専用車は近隣のジョージ・ワシントン大学病院に急行。大統領は緊急手術を受けました。
弾丸は大統領の心臓をかすめて肺の奥深くで止まっており、かなりの内出血を起こしていました。この事実が公になったのは、大統領が回復して退院した後です。
重傷を負ったブレイディ大統領報道官の代わりにこの事実を明らかにしたスピークス副報道官は「安全保障上の理由から直後における公表は控えた」と説明。冷戦下における米大統領の立場を鑑みれば当然の対応です。実際、銃撃事件発生後にソ連潜水艦が米大西洋沿岸に集結する等の動きを示していたそうです。
大統領は手術直前も意識ははっきりしており、執刀医と医療スタッフに対して「諸君がみな共和党員だといいんだがねぇ」とジョークを飛ばし、執刀医は民主党員だったため「大統領、今日一日われわれはみな共和党員です」と答え、大統領が笑ったと伝わっています。
病院に駆け付けた妻ナンシーに対しては「ハニー、僕は避けるのを忘れていたよ(Honey, I forgot to duck)」と言ったそうです。
これは多くの米国人が知っているエピソード、1926年ボクシング・ヘビー級選手権におけるジャック・デンプシーの発言を引用したものです。デンプシーが敗戦後に妻テーラーに対し「ハニー、僕は避けるのを忘れていたよ」と語ったという逸話です。
レーガン大統領の病院でのエピソードが事件後に公表されると「危機時にもユーモアを忘れない指導者のあるべき姿」として称賛の的となり、3週間後に公務復帰した大統領の支持率は一気に高まりました。
事件発生前のレーガン大統領は俳優時代やカリフォルニア州知事時代の言動を根拠に「ポピュリストかつ右傾的」と評されていましたが、この銃撃事件に端を発した支持率上昇、求心力アップが、その後の指導力に繋がり、スターウォーズ戦略の断行、冷戦終結につながる強気外交等の偉業に道筋をつけることに寄与しました。
後に共和党大会での演説中、飾りつけの風船が破裂。再び銃撃事件を想起して騒然とする観衆に対して「奴(犯人ヒンクリー)はまたしくじった」とジョークを飛ばし、聴衆を大いに沸かせました。
レーガン大統領暗殺未遂事件は、その後の米国に2つの大きな影響を与えました。ひとつは精神障害と犯罪の関係です。
そもそも犯人ヒンクリーは、女優ジョディ・フォスターへの偏執的な憧れを抱き、フォスターの自宅近くに引っ越すなど、今で言えばストーカーだったそうです。
フォスターの気を引くために、旅客機ハイジャック等を計画し、最終的には「歴史上の人物としてフォスターと同等の立場になる」ために大統領暗殺を企てました。当初はカーター大統領を狙い、重火器不法所持罪で逮捕、拘留されています。
釈放後に神経衰弱となり、精神療法を受けたものの改善せず、やがてカーター大統領に代わって登場したレーガン大統領を狙い始めました。
ヒンクリーは1982年に行われた裁判で13の罪で起訴されましたが、精神異常を理由に無罪となりました。弁護側は精神医学上の報告書で「ヒンクリーは精神異常」であると主張したのに対し、検察当局の報告書は「ヒンクリーは法律上健全である」と宣言しました。
ヒンクリーの無罪判決は、精神異常を理由とした無罪に対する反対運動を惹起し、その後の下院及び多くの州での精神異常者の犯罪処罰に関する法律の改正につながりました。その結果、3つの州では精神異常者の弁護を廃止しました。
無罪判決を受けたヒンクリーは病院で拘束されたものの、1999年に両親監督下での退院許可、2000年には監督なしでの釈放許可を得ましたが、女優フォスターに関する資料を病院に持ち込む等の行為が発覚。許可は無効となりました。
2016年、改めて釈放が許可され、精神状態が安定しているとして、先日(2022年6月15日)、ヒンクリーに対する全ての行動制限措置が解除されました。
もうひとつは、銃規制に関する動きです。大統領とともに銃撃を受けた3人のうち、ブレイディ大統領報道官は頭部に弾丸を受け、回復不能な障害が残りました。
この事件を契機に1993年に制定されたのが、銃器購入に際して購入者の適性を確認する「ブレイディ法」です。
内容は、銃販売店に購入者の身元調査を義務づけ、重罪の前科がある者、精神病者、麻薬中毒者、未成年者などへの販売を禁止するものです。
ブレイディ法は販売店に対する規制であり、所有者の携行・所持等については別途州法が規制します。
ハロウィンの際に16歳の日本人留学生(高校生)が射殺された1992年の事件も後押しとなり、翌年の制定に至りました。なお、射殺された留学生は僕の高校の後輩です。
しかしこの法律は2005年に全米ライフル協会等の抵抗によって、効力延長手続が行われず、失効しました。
なお、ブレイディ大統領報道官は職務遂行が不可能となりましたが、1989年にレーガン大統領が退任するまで、正規の大統領報道官として留任しました(職務は上述のスピークス副報道官が代行)。2014年、ブレイディ氏は73歳で亡くなりました。
米国の銃規制論争は、合衆国憲法修正第2条「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない」との規定の解釈に起因します。
本条項は米国における銃規制反対の根拠になっています。この「武装権」に関して、「民兵を組織するための州の権利であって個人に銃所持を認めたものではない」とする集団的権利説と、「個人が武装する権利である」とする個人的権利説が併存しています。
1787年制定の合衆国憲法には国家統治に関する規程しかなく、国家、国家権力と市民の関係に関する規定がありませんでした。
そのため、1789年に合衆国憲法修正第1条から第10条を制定。修正条項は標準的解釈に基づけば国家や国家権力に対する市民の権利に関するものです。2008年、最高裁判所は個人的権利説を採用する判決を下しました。
米国では最近も学校での銃乱射事件が頻発しており、銃規制を巡る論争と対立は続いています。なお、ライフルは18歳以上、拳銃は21歳以上から購入可能です。これは連邦法で定められており、所持の可否は州法によって州毎に区々の対応となっています。
米国では開拓時代から自衛のために武装するのは常識です。1930年代に規制されるまで短機関銃も強盗対策として店頭販売され、一般人もギャングも容易に入手できました。
禁酒法時代には警察を含む当局もギャングもトンプソン・サブマシンガンで武装して銃撃戦を展開。やがてトンプソンでは車両貫通力不足として軍用自動小銃ブローニングM1918自動小銃が当局や銀行警備員等に供給され、ギャングに対抗しました。
現在、米国における個人所有銃は約2.7億丁(世界最多)。銃が原因の死亡者数は毎年3万人を超えています。
余談ですが、日本の銃の歴史は意外に知られていません。16世紀の鉄砲伝来以降、国内で量産され、戦国時代末期には50万丁以上あったと言われています。当時としては世界最大の銃保有国です。
銃規制は、一揆防止策として豊臣秀吉が実施した1588年の刀狩に始まり、武士以外の刀、槍、弓、鉄砲等武器所有を禁じました。
しかし、実際には江戸時代を通して相当数が市中に留まり、幕末には対外防衛の必要性から規制緩和。一部藩では大量の鉄砲を保有しました。新規に輸入・製造したもののほか、国内に滞留していた丁数が顕現化したものと思われます。
1945年の敗戦直後、旧日本軍から流出した軍用銃が大量に出回りましたが、翌1946年の銃砲等所持禁止令によって狩猟用等を除き銃所持禁止。以後、不法な銃所持は暴力団等によるものが中心です。
日本の銃規制は世界的に最も厳しい内容です。国民の銃所持率は0.3%程度と世界最低、殺人事件における銃使用割合は約3.5%と世界で2番目に低い水準です。
脱線ついでにスイスの例をご紹介します。スイスは古くから国民皆兵であったため、過去には銃を所持しない男性は結婚できないという規制があったほどです。
スイスに初めて行った際、普通の人が自動小銃を肩にかけて歩いているのを見て驚きました。2011年には軍用ライフルの自宅保管取止めを求めた国民投票が行われ、否決されました。
スイス家庭の銃所持率は2016年時点で24.5%と欧州内で高目でしたが、2019年、銃規制をEU基準に合わせることを問う国民投票が実施され、63.7%の賛成で可決。銃規制容認の雰囲気が出てきていましたが、ウクライナ侵攻でまた元に戻りつつあるそうです。
ところで、今回の安倍元首相銃撃事件で日本の要人警護態勢の不備も露呈しました。レーガン大統領銃撃事件の時には、銃声とともにシークレット・サービスが身を挺して大統領を伏せさせ、専用車両に押し込んだ光景をよく覚えています。今回の日本の対応とは大きく異なります。
シークレット・サービスは1865年設立。南北戦争時に偽造通貨の捜査機関として創設された米国最初の国内諜報機関です。財務省傘下の組織でしたが、2001年に発生した同時多発テロ事件を契機に設置された国土安全保障省(DHS)に移管されました。
シークレット・サービスは、警護担当3200人、制服部門1300人、技術・管理部門2000人、合計6500人体制です。
大統領護衛部門の仕事は2週間単位でのシフト制。勤務後は2週間のトレーニング期間に入り、トレーニング終了後に再び現場復帰。警護中は食事を摂ることも、雨の中で傘をさすことも不可。肉体的に過酷であり、平均して5年程度で限界が来ると聞きます。
最後に「テカムセの呪い」についてです。西暦で20の倍数の年に選出された大統領の災難の原因とされる呪いです。1840年から1960年までの120年間、西暦で20の倍数の年に当選した大統領は全員在職中に亡くなりました。
1840年選出ハリソン大統領は、就任前の騎兵隊時代の1811年、ティピカヌーの戦いでインディアン部族ショーニー族のテカムセ酋長を殺害しました。
それを恨み、テカムセの弟、予言者テンスクワタワが20年ごとに選ばれる大統領を死に至らしめる「呪詛」をかけたと言い伝えられています。
ハリソン大統領は就任翌年の1841年に肺炎で死去。1860年選出リンカーン大統領は1865年に暗殺。1880年選出ガーフィールド大統領は1881年に暗殺。1900年選出マッキンリー大統領は1901年暗殺。
1920年選出ハーディング大統領は1923年に心臓発作で死去。1940年選出ルーズベルト大統領は1945年に脳溢血で死去。そして、1960年選出ケネディ大統領は1963年に暗殺。
1980年以降選出の大統領は「呪詛」どおりにはなっていません。1980年選出レーガン大統領は1981年暗殺未遂に遭ったものの、任期満了後の2004年に逝去。
2000年選出ブッシュ大統領(息子)も手投弾を投げつけられるなど、複数の危機に遭遇。そして2020年選出バイデン大統領、今年1月、ペンシルベニア州ピッツバーグを訪問する数時間前に通行予定の道路橋が崩壊。
「呪詛」のパワーが低下しているのかもしれませんが、ブッシュ大統領は9.11、バイデン大統領はウクライナ戦争と、世界的危機に遭遇しています。
(了)