政治経済レポート:OKマガジン(Vol.495)2022.9.21

エリザベス女王の国葬が行われました。生前に自らの国葬に関する手順、希望等を指示していたそうです。国民統合に寄与する国葬となるように気配りをされていたのでしょう。死してなお、国のあり方、国民感情に思いを致すエリザベス女王には敬服するばかりです。即位は1953年でしたが、成人年齢で第2次世界大戦と向き合った主要国最後の指導者でした。心からご冥福をお祈りいたします。この機会に、世界の王室と日本の皇室について整理しておきます。


1.世界の王室

エリザベス女王の高祖母ヴィクトリア女王(在位1837~1901年)は英国ハノーヴァー朝第6代であり、夫はザクセン(ドイツ)公子。在位期間はエリザベス女王に次ぐ長さで、世界の過半を植民地化した19世紀大英帝国を象徴する女王です。

女王を継いだのは長男エドワード7世(在位1901~1910年)。母ヴィクトリア女王の在位が長かったため、新国王チャールズ3世に次いで長く皇太子を務めました。同帝治世下で日英同盟、英仏協商、英露協商が締結されたことから「ピースメーカー」とも呼ばれました。王妃はデンマーク国王の娘です。

エドワード7世を継いだのは次男ジョージ5世(在位1910~1936年)。ウィンザー朝初代君主。海軍勤務が長く「セイラー・キング」と称される航海好き、射撃名手として知られ、王妃はヴュルテンベルク王家(ドイツ)系でヴィクトリア女王の従姪です。

その次が難題でした。即位した長男エドワード8世は未婚。即位した年の12月、新国王は2度の離婚歴のある米国人女性と結婚するために王位放棄を宣言しました。

これに伴い弟アルバートがジョージ6世として即位(在位1936~1952年)。海軍士官からの突然の即位に本人は当惑しましたが、兄の王位放棄によって揺らいだ王室に対する国民の信頼回復と第2次世界大戦を乗り切ることに腐心しました。

当時の英国王室は他国の王室関係者と婚姻することが普通でしたが、ジョージ6世は海軍士官時代に英国人女性と恋愛結婚。国民の好感を呼んだそうです。

そしてジョージ6世を継いだのが長女エリザベス2世でした。夫のエディンバラ公フィリップ殿下(昨年4月ご逝去)はギリシア王室出身。ギリシア王室はもともとデンマーク王室の系譜であり、フィリップ殿下は英国に帰化するまでギリシアとデンマークの王子。ヴィクトリア女王の玄孫でもあり、英国王位継承権を有していたそうです。

世襲制君主を擁する欧州国家はノルウェー、スウェーデン、デンマーク、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、英国、スペイン、リヒテンシュタイン。欧州王室は縦横に絡まっています。

独皇帝ヴィルヘルム2世はヴィクトリア女王の孫。同帝が第1次大戦を引き起こしたのは親戚内での格下扱いへの反発説もあります。露皇帝ニコライ2世はヴィクトリア女王の孫の夫。つまりヴィルヘルム2世もニコライ2世も英国王ジョージ5世の従弟。また、ニコライ2世の妻はヴィヘルム2世の親戚でした。

スペイン、ノルウェー、ノルウェー王室は順位は低いものの英国の王位継承権を持っているそうです。

英国とベルギーの王室はどちらもザクセン(ドイツ)系の同一家系。現在の英国ウィンザー朝は独貴族ハノーファー家から王子を迎えて成立。しかし、第1次大戦時に敵国ドイツの貴族名を名乗ることを避けるために「ウィンザー王朝」と改名。つまり、英国王室には今でも独ハノーファー家の血が流れてることになります。

現在、世界には27の王室が存在しますが、最古は「日本の皇室」。今上天皇は126代であり、少なくとも6世紀以降は血統が変わっていない「万世一系」。つまり1500年以上続く王室です。

2位はデンマーク。西暦900年以降続いています。3位が英国。1066年、フランスから上陸したノルマンディー公ギヨームがノルマン王国を創始した「ノルマン・コンクエスト」が始まりです。

ノルマン人はバイキングの一部であり、スカンジナビア半島が起源。その一部族がフランスに領土を得ていましたが、ギヨームは当時のフランス王室の家臣でした。

ギヨームはイングランド国王ウィリアム1世を名乗り、以後、ウィリアム2世、ヘンリー1世、リチャード1世、ジョン王等に継承。ウィリアムはギヨーム、ヘンリーはアンリ、リチャードはリシャール、ジョンはジャン、いずれも仏語名です。英語名は1272年即位のエドワード1世からであり、王室言語もそこから仏語から英語に変わりました。

欧州の中心である英仏独は近代以降に成立した国家であり、中世にはそのような国家概念や地理的境界はありませんでした。ヘンリー3世が仏国王の地位を主張し、百年戦争が勃発。英国は仏国内の領土を失い、むしろ現在の英国という国が形成されていきました。

ベスト10に戻ります。4位は1479年からのスペイン。現在のフェリぺ6世のレテイシア王妃は元ジャーナリストで離婚歴あり。国王の両親カルロス夫妻は結婚に反対したものの、フェリぺ国王は「結婚できないのなら王冠を捨てる」と宣言したニュースは覚えています。

5位は1523年からのスウェーデン。現王朝初代はフランスの平民出身。シルヴィア王妃はドイツ出身で元通訳。他の王族配偶者も一般人が多く、世界で最も庶民的王室と言われています。1980年に「男女を問わず第1子が王位継承者となる」として王位継承順位変更を決めたことでも知られています。

以下、6位タイ(1782年)、7位バーレーン(1783年)、8位オランダ(1815年)、9位ベルギー(1830年)、10位トンガ(1845年)です。

2.「天皇」号と「日本」国名

日本皇室は紀元前660年即位の神武天皇からとされていますが、西暦712年に編纂された古事記に基づく神話的内容も含まれています。

尾張史を研究している立場からすると12代景行天皇からは史実に裏付けられます。尾張に多くの伝承を残している日本武尊は景行天皇の息子です。

その頃は「天皇」と称さず「大王(おおきみ)」「治天下大王(あめのしたをしろしめすおおきみ)」と言われていました。以下「大王」と記します。

581年、約300年振りに中国統一王朝である隋が成立。593年、倭国では推古大王(初の女帝)が即位し、甥の厩戸皇子(聖徳太子)が摂政皇太子に任じられました。

607年、聖徳太子は遣隋使小野妹子を派遣。中国王朝への使節派遣は135年振りでした。135年前(つまり478年)に当時の王朝(宋)に使節を派遣したのは21代雄略大王。使節は朝貢的意味を持ち、言わば大陸王朝からの冊封を形式的に受け入れていました。

その後、華北は五胡十六国時代に入り、江南は東晋・宋・斉・梁・陳と変遷したため、倭国大王は使節派遣を止めました。

135年振りに倭国から来た使節の国書を見て隋の煬帝は激怒。国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と記してあったからです。

「日出づる処」「日没する処」の対比も問題ですが、最大の問題は「天子」という表現。「天子」は中国王朝の「皇帝」を意味したからです。

ところが、煬帝は小野妹子に使者と返書をつけて倭国に送還。その背景には当時の東アジア情勢が影響していました。隋は隣国高句麗と戦争状態(隋麗戦争)にあり、高句麗の南に位置する倭国と良好な関係を結び、高句麗を挟み撃ちにすることを考えたからです。「近攻遠交」の典型です。

聖徳太子はこの情勢を見抜いた上であえて非礼な国書を送るという賭けに出ました。聖徳太子は秦河勝(新羅系)、慧慈(高句麗系)、覚哿(百済系<元々はササン朝ペルシャ人>)という3人のブレーンを抱え、大陸・半島情勢に関する情報を得ていたようです。聖徳太子の外交手腕によって、倭国は隋に冊封される関係にはなりませんでした。

翌608年、再度小野妹子を派遣。携えた国書には「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す」と記し、倭国の「天皇」と隋の「皇帝」を使い分けました。この時が「天皇」号の初出です。「天皇」号の出典は後述します。

隋への国書には「天皇」と記したものの、倭国内ではまだ「天皇」号は定着していません。倭国は645年の大化改新等を経つつ、律令国家としての体制整備を進めます。

661年、斉明大王崩御。663年、倭・百済連合軍は「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍に敗れ、大陸からの侵攻に備えた国家体制整備が急務となります。皇位に就かずに事実上統治していた息子の中大兄皇子は668年、天智大王として即位。弟は大海人皇子、息子は大友皇子です。

672年、天智大王崩御。大友皇子は弘文大王として即位しますが、大海人皇子との決戦不可避と考え、「壬申の乱」勃発。「瀬田の戦い」で敗れた弘文天皇は自害。673年、大海人皇子が天武大王として即位。

この時、天武大王は初めて「天皇」号を使用しました。「天皇」号由来の第1は、中国における宇宙主宰神「昊天上帝(こうてんじょうてい)」の別名である「天皇(てんこう)大帝」説。第2は道教の最高神である「天皇大帝」説。

第3は大王号の権威向上のために「大」を「天」に「王」を「皇」に画数を足して作られた日本式漢語説。608年の隋への国書における「天皇」号表記も、同様の根拠から導き出されたと思われますが、個人的には第2説が有力と考えます。

674年、唐の第3代皇帝高宗も自らを「天皇」、皇后を「天后」と称しました。高宗一代限りの称号でしたが、唐皇帝は道教開祖老子の末裔を自認していたので、やはり「天皇大帝」に由来したものと思料します。

初代「天皇」となった天武天皇は「古事記」「日本書紀」編纂を下命。もともと聖徳太子が「国記(くにつふみ)」「天皇記(すめらみことのふみ)」編纂を命じていた事業を継承したものと思われます。そして、初代に遡って「天皇」号が追号されました。

国名は依然として「倭国」または「日出処(国)」」でしたが、「旧唐書(くとうじょ)」によれば、701年の第7次遣唐使粟田真人(あわたまひと)が「倭国の地を統合し、太陽の昇る彼方にあるため日本という名をつけた」と説明したという記述があります。

「天皇」号の日本的意味は中国の「易姓(えきせい)革命」との対比から考察可能です。易姓革命とは王朝交代を正当化する理論。「天の命」による交代を意味します。

中国では「易姓革命」による初代皇帝は「天子」となりますが、次代以降は「皇帝」にしかなれません。しかし、日本の「天皇」は「天子である皇帝」すなわち「天皇」と解釈され、「天子」でもあり「皇帝」でもあります。

そもそも天皇には姓がなく、「当今(とうぎん)様」「主上(しゅしょう)」「お上(かみ)」「今上陛下」と呼ばれます。姓がないので「易姓革命」は起きません。

日本の元号が「即日改元」である点からも推察できます。中国では皇帝逝去の年末までは同じ元号が使われましたが、「易姓革命」の際には「即日改元」です。日本の「即日改元」は歴代天皇が全て「天子であり天皇」であると認識されている故です。

3.皇位継承の歴史

古代中国「宋書」に「賛(さん)」「珍」「済(せい)」「興」「武」の「倭の五王」が記されています。「梁書」には「宋書」の「珍」に当たる王が「弥(み)」と記されています。

各王が何代目の天皇に当たるかは専門家の研究対象ですが、「武」王が26代雄略天皇であろうということは概ね定説です。

22代清寧天皇で直系が絶え、16代仁徳天皇の3世孫である23代顕宗天皇、つまり6世隔たった血統に継承されました。

25代武烈天皇も直系が絶え、今度は15代応神天皇まで遡り、その5世孫であり、北陸に住む男大迹(おおど)が継承。武烈天皇から10世隔てた血統です。男大迹は26代天皇として即位し、皇統を継ぐという意味の「継体」と号しました。

南北朝時代直前、持明院統と大覚寺統が交互に即位し、91代後宇多天皇のあとは4世隔てた92代伏見天皇、93代後伏見天皇のあとは6世隔てた94代後二条天皇、そのあとはやはり6世隔てた95代花園天皇に継承しました。

95代の次は再度6世隔てた96代後醍醐天皇が即位したものの、光厳天皇も即位。後醍醐天皇は吉野に入って南朝を立て、南北朝時代に突入。結局「明徳の和約」で和解し、99代後亀山天皇のあとは12世隔てた100代後小松天皇が即位しました。

15代応神天皇以降の117天皇(南北朝双方を含む)のうち、直系子の皇嗣、つまり1世に皇位継承したのは54天皇です。残る63天皇は直系以外への継承であり、直系と直系以外はほぼ半々です。

南北朝時代後、101代称光天皇のあとは8世隔てた102代後花園天皇となり、それから暫くは直系が続きました。118代後桃園天皇で再び直系が絶え、7世隔てた119代光格天皇が即位し、以後の系譜は今上天皇に至るまで、光格天皇の直系が続いています。

102代後花園天皇と119代光格天皇の系譜は7代連続で直系継承し、初代も含めると8代にわたって直系です。但し、後花園天皇の系譜は途中に孫への2隔世継承が含まれています。

複数代にわたって直系が続いた39天皇を除くと、残る16天皇の直系継承は1代限りの継承、つまり親が子に継承し、その次は直系以外に継承されました。

15代応神天皇以降の111代で、直系が絶えた(系図上、直系男子が確認できない)のは21天皇です。うち、兄弟等へ2世隔てた皇位継承となったのは8天皇、甥等への3世以上隔てた皇位継承となった13天皇です。

上皇陛下の姉君(昭和天皇の第1皇女)照宮成子内親王は1925(大正14)年にお生まれになりました。皇太子であった裕仁親王、良子妃のご意向もあり、里子には出されず、ご両親の元で養育されたそうです。当時としては画期的なことです。

成子内親王は1941(昭和16)年に東久邇宮稔彦(なるひこ)王の第一王子・盛厚(もりひろ)王と1943(昭和18)年にご結婚されました。

ご結婚相手が皇族であったため、成子内親王も皇族のままでしたが、敗戦後の1947(昭和22)年、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の意向により、義父である東久邇宮稔彦王が皇族の身分を離れたため、皇室典範の定めによって、夫・盛厚王とともに皇族の身分を離れました。

成子内親王は5人の子をご出産。1960(昭和35)年にご入院され、翌1961(昭和36)年、16歳のご長男を筆頭に5人の子を遺して35歳でご逝去されました。

成子内親王の夫となった東久邇宮盛厚王の父東久邇宮稔彦王は、戦後、終戦処理内閣(皇族内閣)として第43代内閣総理大臣を務められた宮です。

東久邇宮稔彦王は、1887(明治20)年に久邇宮朝彦王の第9王子として生誕。宮家の末子として、成人後に臣籍降下して伯爵となる予定でしたが、明治天皇の第9皇女である泰宮聡子内親王とご結婚されたため、東久邇宮家をお立てになりました。

つまり、東久邇宮稔彦王・盛厚王親子は、父が明治天皇の皇女、息子が昭和天皇の皇女とご結婚されたということです。

稔彦王の父久邇宮朝彦王は1824年、伏見宮邦家王の第4王子として生まれました。天保年間には120代仁孝天皇の猶子となったほか、228世天台座主もお務めになっています。幕末史にも登場する宮ですが、1875(明治8)年に久邇宮家を創設されました。

久邇宮朝彦王の第3王子が邦彦王です。第9王子である東久邇稔彦王の兄に当たります。そして、久邇宮邦彦王の第1女王として1903(明治36)年にお生まれになったのが良子(ながこ)女王は、長じて1924(大正13)年に皇太子裕仁親王とご結婚されました。つまり、後の昭和天皇の皇淳皇后です。

朝彦王の父、伏見宮邦家王は1802年生まれで、北朝3代崇光天皇の男系14世孫です。1817年に光格天皇の猶子となりました。邦家親王は男子を多くなし、明治以降の伏見宮系皇族隆盛の端緒となった宮であり、戦後に皇籍離脱した11宮家全ての源流に当たります。11宮家のうち5宮家は系譜が絶え、現在も続いているのは6宮家です。

以上を振り返って再整理します。伏見宮邦家王が崇光天皇14世孫ということは、久邇宮朝彦王は15世孫、邦彦王及び東久邇宮稔彦王は16世孫、盛厚王は17世孫になります。そして、皇淳皇后の子である上皇陛下にとっては、昭和天皇は父、久邇宮邦彦王は母方の祖父、久邇宮朝彦王は曽祖父、伏見宮邦家王は高祖父となります。

さらに、伏見宮邦家王と久邇宮朝彦王が猶子となった119代光格天皇と120代仁孝天皇は、今上天皇陛下の直系の祖先です。その後、幕末の孝明天皇、そして明治天皇、大正天皇、昭和天皇、上皇陛下、今上陛下とつながります。つまり、今上陛下は光格天皇8世です。

以上のように、現在の天皇家の系譜と、伏見宮、久邇宮、東久邇宮は近い関係にあり、その東久邇宮の系譜には、盛厚王と成子内親王の間には3人の男子、その次の世代には5人の男子、さらにその次の世代にも数人の男子がいらっしゃるようです。

なお、伏見宮、久邇宮、東久邇宮の祖先である崇光天皇は南北朝時代の北朝3代天皇であり、崇光天皇の18世孫から20世孫となる盛厚王の子、孫、曾孫の3世代は、今上天皇陛下とは38世から40世隔てた系譜となります。

(了)

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