政治経済レポート:OKマガジン(Vol.496)2022.10.17

先日の三連休、政治に興味があるという高校生と懇談。話は日本経済に及び、世界における日本の位置づけについて感想を聞いてみました。「例えば、半導体産業についてどう思う」と聞くと「台湾、韓国より強く、世界一」との反応。高校生の夢は壊したくないものの、間違った現状認識は若者や日本の将来にプラスにならないので「残念だけど現実は違うよ。詳しくはメルマガに書きます」と伝えたので、今回はその内容です。


1.小欣欣豆乳店朝食会議

「半導体」は素材の呼称であり、本来は「集積回路(IC)」と言うべきですが、日本では「半導体」が通称として定着。それも問題ですが、とりあえず「半導体」と呼称します。

米国で誕生した半導体の技術情報が徐々に開示され、真っ先に追随して国策としてキャッチアップしたのは日本です。

台湾も日本を真似て1970年代に国策として半導体産業に取り組み始めます。既存組織を再編し、1973年に工業技術研究院(ITRI)を設立。翌1974年、ITRIの下に電子工業研究発展センターを設置しました。

この段階で台湾半導体産業の第1のキーパーソン、潘文淵が登場。1912年江蘇省生まれの潘氏は戦火を逃れて米スタンフォード大学留学。工学博士号取得後にRCA(Radio Corp of America)に入社。1973年時点では集積回路R&D総括長に就いていました。

共産主義国家となった中国に対抗する台湾の発展に貢献したいという願いとともに、半導体が世界の産業の要になることを予見した潘氏は、台湾政府の顧問として活動。

節目になったのは1974年2月7日、台北市内の小欣欣豆乳店で行われた朝食会議です。台湾半導体史において伝説的会議と位置づけられています。

潘氏ほか7名が出席。潘氏のほかは、行政院秘書長(日本の官房長官)、経済相等の閣僚と官僚幹部です。

潘氏は、台湾の電子産業発展を促すためには半導体産業に取り組むことが不可欠であり、基盤確立の時間短縮のために米国から技術を導入することを主張。参加者は潘氏の意見に同意し、台湾の半導体産業育成の方向性が共有されました。

潘氏は米国に在米電子技術顧問委員会(TAC)を設立。TACを介して人材確保、技術導入に尽力。RCAを退職した上で、台湾政府とRCAの間で技術移転契約を締結。330人の台湾人エンジニアの米国研修を実現。この人材が初期の台湾半導体産業の中核を形成します。

1980年、電子センターのモデル工場を聯華電子(UMC<United Microelectronics Corporation>)として企業化。そこで重要な役割を果たしたのが事実上の創業者となった第2のキーパーソン曹興誠(ロバート・ツァオ)です。

曹興誠は1947年北京生まれ。1949年に家族とともに台湾に移住し、台湾大学卒業後にITRIに勤務。1980年に退職して、UMC設立に参画。

UMCはTSMCより先行したファウンドリ企業です。同年にスタートした新竹市の科学学園区(サイエンス・パーク)を拠点としました。

1980年に設立された新竹学園区に続き、1996年には南部、2003年には中部でも同様の学園区が設立されました。いずれも今や台湾半導体産業の集積地。

1983年、潘氏は第3のキーパーソンとなるTI(テキサス・インスツルメント)VP(バイス・プレジデント)の張忠謀(モーリス・チャン)に接触。潘氏は海外台湾人材の活用・還流を企図し、米国で活躍する張氏に注目していました。

張氏は1931年浙江省生まれ、国共内戦中の1948年に香港移住、1949年米ハーバード大学へ入学後、MIT(マサチューセッツ工科大学)に編入。同校で修士号取得後にTI入社。1964年にはスタンフォード大学で電気工学博士号取得。

1985年、張氏は潘氏に招請されてITRI院長に就任。UMCの曹氏と同様にファウンドリ企業の重要性と将来性に着目していました。

米国、日本を中心とする当時の先行半導体企業はIDM方式の企業体です。IDMとは「Integrated Device Manufacturer」の略であり、つまり半導体製造の「前工程」「後工程」全体を有する企業体です。

しかし、半導体産業の将来を見通した曹氏と張氏は、ともにファブレス企業(製造部門を有しない企画設計専門企業)から製造を受託するファウンドリ企業という新しいビジネスモデルに着目。単なるOEM生産(委託者のブランドで受託生産)ではなく、自ら独自の製造技術を有する自社ブランドの生産専門企業です。

米国はIMD方式企業体でも技術開発や経営革新が継続的に続いていますが、日本のIMD方式企業は相対的に保守的・年功重視・技術者軽視等の傾向が強く、後に日本企業の凋落をもたらします。

張氏は1987年にITRIを辞し、自ら台湾積体電路製造(TSMC<Taiwan Semiconductor Manufacturing Company>)を設立。

同氏は、台湾人には米国理工系大学院以上の学歴を有する技術者が多いという強みを活かし、台湾人研究者・エンジニアの継続的な育成・活用に腐心。

また、3つの学園区を高速道路・新幹線網で結ぶことを政府とともに推進。高速道路・新幹線網で結ばれた3学園区の工場や事業所は研究者やエンジニアの移動も円滑。半導体の世代シフトを円滑に進めるために3学園区の工場を計画的に使い分けています。

2.戒急用忍

TSMC設立の1987年、台湾と中国本土の間が「三通解禁」。経済発展を渇望する中国政府が台湾との「通信(通郵)・通航・通商」を認めたということです。

さらにその直後、1989年の天安門事件が勃発。民主化よりも経済発展を優先した鄧小平が国内混乱を制するために民主化勢力を弾圧しました。

1992年、実権を掌握した鄧小平は「南巡講話」を行い、「先富論」「改革開放」を推奨。こうした動きを歓迎した台湾企業は中国投資ブームに沸きます。中国は台湾からの投資や企業進出を歓迎し、両国の経済交流は急拡大しました。

ここで第4のキーパーソン、李登輝総統が重要な役割を果たします。李総統は1923年生まれ。日本占領時代だったことから、戦前の京大を経て旧日本陸軍に所属。戦後は台湾大、米アイオワ大等を経て1965年に米コーネル大で農業経済学博士号取得。1971年に政界に進出し、1988年に総統に就任しました。

李総統は中国投資ブームによって技術や資金が中国に流出することを懸念。台湾による技術移転、巨額投資、インフラ建設等を規制しました。

1995年、李総統は「戒急用忍(急がば回れ)」という方針を示し、対中国貿易法を制定。中国への警戒を強めました。

こうしたことも影響し、以後、PC組立等の軽難度の電子産業は中国進出を続けたものの、半導体産業は中国進出を抑制。半導体産業を守るための李総統の舵取りを見届け、1995年、第1のキーパーソン潘氏は他界しました。

李総統は2000年に退任しますが、それを待っていたかのように同年、中国はWTO(世界貿易機関)に加盟し、新ココム(ワッセナー・アレンジメント)等による対中輸出規制等の緩和を勝ち取ります。

2000年が中国半導体元年と言われる所以であり、中国は台湾半導体産業の人材を猛烈にスカウトし始めました。

同年、中芯国際集成電路製造有限公司(SMIC<Semiconductor Manufacturing International Corporation>)が設立されます。

創業者は米TIで上述の張忠謀(モーリス・チャン)の部下だった張汝京(リチャード・チャン<1948年生まれ>)。

リチャード・チャンは台湾で設立した世大積体電路をTSMCに売却したうえで、数百人の社員を連れて上海に移り、上海市政府の資金でSMICを設立しました。

リチャード・チャンはTSMCの技術やビジネスモデルを持ち出していたため、SMICは2003年以降、断続的にTSMCに訴えられ、訴訟が続きます。

2009年和解、リチャード・チャンはSMICのCEO辞任。この間もその後も、SMIC及び中国当局は、当然、日本の企業、研究機関、大学からも技術、情報、人材を獲得。

この頃の日本は、李総裁の方針に基づいて中国と一線を画した台湾とは正反対に、過度の中国進出、中国依存に走り、現在に至っています。

2020年、米国はSMICを機微技術や製品の輸出を制限するエンティティ・リストに追加。こうした動きを凝視しながら、同年、李総統は他界しました。

現在、SMICは半導体の高度微細化に必要なEUV(極端紫外線リソグラフィ<Extreme ultraviolet lithography>)露光装置の調達が困難化しています。しかし、SMICは逆にEUV露光装置に依存しない微細化技術獲得を目指し始めており、中国当局の支援を背景とした半導体産業の覇権獲得の試みは続いています。

今や半導体産業で台湾と双璧をなす韓国。韓国半導体産業の礎はサムスン電子の創業者李秉喆(イ・ビョンチョル、り・へいてつ)が築きました。

李氏は1910年慶尚南道生まれ。早稲田大学中退後、1938年に大邱で三星商会を設立したのが今日のサムスングループの始まりです。食品と衣服が主力事業でした。

1969年にサムスン(三星)電子工業を設立し、日本の三洋電機、NEC、住友商事等の支援を受けて白物家電、AV機器等の電器・電子産業に進出。当時急増しつつあった韓国内の需要を狙った展開でした。

1960年代後半、韓国内でも米国資本・日本資本(東芝等)系現法の半導体組立工場がスタート。韓国商工部(日本の通産省に相当)も米日企業の韓国進出を促すとともに、電子工業振興会という産業組織を設立。1969 年電子工業振興法を制定し、8ヶ年計画を推進。

1974年に初の韓国資本による韓国半導体という企業創設。1975 年にサムスンが韓国側持分50%を取得、1977 年に残り持分も取得して完全子会社化してサムスン半導体を設立。サムスンの動きを契機にLG等の他の半導体企業も設立されました。

1970年代までの韓国半導体産業はあくまで電器・電子製品の部品産業としての位置づけでしたが、1980年代になると独立産業として育成すべく、政府が支援策を講じます。

大規模投資が必要なことから、リスクが高いウェハー製造業に財閥企業(サムスン、LG、現代等)を進出させ、1986 年までに4 億ドル規模の長期低利公的資金を投入。この政策は日本(通産省)が行った VSLI プロジェクトをモデルにしました。

また、サムスンは米国シリコンバレーのベンチャー企業との連携、現法設立、韓国系米国人研究者を活用して技術とノウハウ習得に腐心。

そして1990 年代入りし、韓国半導体産業が市場を席巻する歴史的転機点を迎えます。1991年、世界初の 16 M DRAM を発売。1992年からDRAM市場で1位となりました。

同年、世界初64MDRAMの開発にも成功、1993年にはDRAM市場で13.5%のシェアを獲得。12.8%に留まった日本の東芝を抜いてついにシェア世界1位を奪取しました。

3.「3つの過剰論」の失敗

韓国と日本の半導体産業の成功要因を比較するといくつかの共通点があります。第1はキャッチアップモデルということです。日本が米国を、韓国が日本を参考にしたので、最大の共通点はここにあります。韓国内では日本の「隣人効果」という表現もあります。

日本は通産省主導のVLSI(超大規模集積回路)研究組合を創設して補助金、優遇税制、公的融資等の政策制度を推進。韓国も日本を参考に商工部が優遇政策を実施。1986年までに 約4 億ドルの長期低利公的資金を投入しました。

研究機関の役割も似ています。日本では電電公社電気通信研究所や通産省工業技術院電気試験所がリード役を果たし、それを模倣して韓国ではETRI(電子通信研究院)がサムソン等に協力しました。

違いもありました。日本の場合、基礎技術を官民共同で共同開発し、製品化で激しく競争。韓国の場合、サムソン同様に競合各社がシリコンバレーに直接進出したことから、基礎技術部分でも日本より競争的であったと伝わります。

決定的な違いは内外市場との向き合い方です。韓国の場合、政府機関であるKDI(開発研究院)が「韓国では半導体組立は可能だが、国内市場規模が小さいことから半導体製造は無理」という報告書を公表。同報告書は「人口1億人以上、1人当たりGNP1万ドル以上、国内市場が需要全体の50%以上」が半導体製造産業成立の前提と分析。当時のアジアでは日本のみこの条件に合致していました。

ところが1982年、サムソン李秉喆(イ・ビョンチョル)会長が社内外の反対を押し切って半導体製造に進出。「資源がほとんどない韓国にとって、付加価値が高く高度な技術を要する製品を開発することが発展の唯一の道」と言明。

国内市場が小さいことを承知のうえで進出するということは、最初から輸出指向ということです。この点が日本の半導体産業との大きな違いでした。

李会長は先行する日本を目標とする「東京宣言」を発表。同年、サムソン東京支店が開設され、日本から半導体製造装置の輸入開始。製造技術はシャープ等から支援を受け、6ヶ月後には米国マイクロンと東芝に続く世界で3番目の64KDRAM開発に成功。ほどなく256KDRAM開発にも成功。

その直後の1984年、東芝の舛岡富士雄氏が世界初NOR型フラッシュメモリ開発に成功。1985年世界初1M DRAM、1987年世界初NAND型フラッシュメモリと、次世代メモリ開発に次々と成功。日本の半導体産業全盛期を迎えます。

この展開がサムソンに幸運をもたらします。東芝や米国マイクロン等の半導体トップ企業が次世代メモリに移行することで旧世代メモリが品薄状態となり、あえて256KDRAMに注力したサムソンは莫大な利益を享受。一気に事業規模を拡大しました。

この経営判断を行ったのが李会長の三男李健熙副会長。李会長が1987年に他界した後は2代会長に就任しました。

その後、日韓半導体産業は対照的な展開になりますが、その背景には日本の甘さも影響しています。1986年、東芝半導体事業本部長川西剛氏が同社国際担当専務の仲介でVIP待遇を受けて建設途中のサムソン半導体工場を視察。お返しに当時世界最大容量1MDRAMを開発中の最新鋭大分工場を見学させました。

同年、サムソンは東芝大分工場生産ライン統括担当製造部長をスカウト。東芝大分工場と同等設備を有する工場を建設し、1MDRAMの開発に成功します。

1988年、日本半導体企業は世界トップ10の6社を占めますが、バブル崩壊(株価ピーク1989年12月末)による資金繰悪化でメモリ事業撤退や工場閉鎖等のリストラを開始。

サムソンは韓国政府の支援を背景に、東芝、松下電器、三洋電機、シャープ、NEC等からリストラされた日本人技術者を高給でヘッドハンティング。日本人技術顧問77人がサムソンに移籍しました。

1992年、東芝とサムスンはフラッシュメモリの共同開発と技術仕様・製品情報の供与契約を締結。1993年、サムスンは韓国初の6Mフラッシュメモリを開発。

1994年3月、NECとサムスンは当時世界最大容量256MDRAMの共同開発・情報供与契約を締結。開発成功はNECと日立が先行していたはずですが、同年8月、サムスンは「世界初」の256MDRAM開発成功を宣言。翌1995年、東芝とサムスンは64Mフラッシュメモリ技術共同開発を契約。

1996年、通産省が日の丸半導体優位を続けるために始めたコンソーシアム「半導体先端テクノロジーズ」に日本メーカー10社以外にサムソンを受入れ。当時の説明では国際化する世界半導体業界の動向を踏まえた配慮とのことでしたが、結果的にサムスンのさらなる先端製造技術獲得につながります。2000年以降NEC等の日本勢の半導体撤退を機に、再び多くの技術者がサムスンに移籍しました。

1997年、アジア通貨危機はサムスンをさらに強力な企業に成長させる契機となります。IMF支援下の韓国では大企業30社のうち16社が破綻。倒産寸前のサムスンにも公的資金が投入され、韓国経済の命運を握る半官半民企業として生き残り、かえって成長加速。

2000年代前半には次世代産業LCD事業や携帯電話事業に大規模投資を行い、多くの製品で市場シェアを伸ばしました。

2009年、サムスンは売上高で独シーメンスと米国HPを超え、世界最大のIT・家電メーカーの地位を奪取。同年の同社シェアは薄型テレビと半導体メモリで世界1位、携帯電話が世界2位、白物家電でも上位を占めました。

2012年、日本最後のDRAMメーカーエルピーダが破綻。残りのDRAM大手3社(サムスン、ハイニックス<現代系>、米国マイクロン)の業況は持ち直し、DRAM業界は空前の好景気入り。2017年と2018年のサムスンの世界ランキングは1位です。

過去30年間の日本企業衰退の契機は1990年代の「3つの過剰」論。バブル崩壊後、設備、雇用、債務の「3つの過剰」を減らすことがブーム化。それを煽ったエコノミスト等の関係者や便乗した経営者の結果責任は重大です。

その間、台湾TSMC創業者モーリス・チャンは「収益より技術革新」、韓国サムソン創業者李秉喆は「不景気の時こそ設備投資しろ」と莫大な投資を継続。その顛末が今日の状況です。

国内企業同士の相互破壊的な消耗戦も原因です。差別化競争ではなく、同質的競争がダンピング競争につながりました。デフレマインドの一因でもあります。

韓国サムソンは、メモリ特化、日本があまり注力しなかったアジア市場重視、設備投資や技術開発のための大規模継続投資など、戦略の成功が今日の状況につながっています。

日本は経済敗戦の現実を直視することが、巻き返しの第1歩です。

(了)

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