今月11日、日本の主要企業8社が半導体戦略企業「ラピダス」設立を発表。8社は、キオクシア、ソニー、ソフトバンク、デンソー、トヨタ自動車、NEC、NTT、三菱UFJ銀行。まさしく日本を代表する企業チームであり、2nm以下の最先端半導体の開発実用化を発表した以上、頓挫失敗した時には日本という国全体が負うダメージは重大。そうならないように拙い知見と影響の及ぶ範囲で側面支援したいと思いますが、そのためには今日に至る低迷の過程と背景を直視することが不可欠です。改めて整理してみます。
半導体の特性は1821年に発見されました。それから約50年後、1874年、F・ブラウン(1850年生、1918年没)がダイオードの機能を発見。ブラウンは「ブラウン管」の語源になった科学者であり、1909年にノーベル物理学賞を受賞しました。
1904年、T・エジソン(1847年生、1931年没)は電流の熱電子放出に関する「エジソン効果」を発見。J・フレミング(1849年生、1945年没)が「エジソン効果」を応用して整流器として機能する「真空管」を発明しました。
1938年、W・ショックレー(1910年生、89年没)が半導体による増幅器を開発。1947年、J・バーディーン(1908年生、91年没)とW・バッテン(1902年生、87年没)が点接触型トランジスタを発明。翌1948年、ショックレーが接合型トランジスタを発明しました。
ショックレー、バーディーン、バッテンの3人は1956年に揃ってノーベル物理学賞を受賞します。
米国のこうした発明や技術は日本に流入。1955年、東京通信工業(現SONY)が日本初のトランジスタラジオを発売。1957年、江崎玲於奈博士(1925年生)が「トンネル効果」を発見。後のエサキダイオード発明につながり、江崎博士は1973年にノーベル物理学賞を受賞しました。
この頃から本格的な半導体集積回路(IC)の開発が進みます。1958年、J・キルビー(1923年生、2005年没)が半導体ICを発明し、翌年特許取得。ICは半導体基板上に抵抗やトランジスタ等の回路素子を形成するもので、ギルビーは2000年にノーベル物理学賞を受賞しました。
1959年、R・ノイス(1927年生、90年没)がプレーナ型ICを発明し、特許権を巡ってギルビーを提訴。法廷闘争となりました。
こうした黎明期を経て、1960年代にいよいよ「ICの時代」を迎えます。日本でもIC試作、実用化。60年代後半にはラジオ用IC(バイポーラ)、電卓用IC(MOSIC)量産。TTL(Transistor Transistor Logic)、メモリ半導体も登場し、デジタル製品が勃興します。
1969年、早川電機(現シャープ)が電卓にLSI(Large Scale Integration)を使用し、1970年代は「LSIの時代」になります。
メモリ(DRAM、SRAM)やマイコンが発展。これら産業用LSIの分野で日本が急速に米国をキャッチアップ。ワンチップ化された電卓用LSIや時計用LSI等の民生LSIが1970年代の日本の半導体産業を牽引しました。
1980年代は「VLSIの時代」。日本が民生用LSIで培ったCMOS(Complementary Metal Oxide Semiconductor、相補型金属酸化膜半導体)技術等の要因により、日本が米国を凌ぎます。
ファクシミリ、ワープロ、PC、ファミコン等、新しい半導体応用機器が続々と登場。1984年、東芝の舛岡富士雄(1943年生)がフラッシュメモリを発明。以後、フラッシュメモリはNOR型、NAND型に分かれて発展していきます。
日本から、半導体ICのみならず、自動車、家電製品等の輸出攻勢に業を煮やした米国は1985年のプラザ合意を主導。日本に大幅な円高を強要しました。
円高不況対策として行った低金利政策がバブル経済を招来。日本は1989年にバブルピークを迎え、莫大な資産価値を背景とした経済力を過信。その後の低迷の遠因になります。
1990年代は「ULSI―システムLSI(SoC)の時代」です。DRAM(Dynamic Random Access Memory)の大容量化が進み、日本勢が衰退し、韓国・台湾勢が台頭。
チップ上に集積する素子数を増やしてシステム機能を作り込むULSI(Ultra LSI)、SoC(System on a Chip)が実用化。1990年代後半にはロジック製品において、設計分野は「ファブレス」、製造分野は「ファウンドリ」に分化。EDA(Electronic Design Automation)を含む設計分野で先行する米国と格差が広がります。
この頃、日本はバブル崩壊後の不良債権処理問題に直面し、韓国・台湾・中国の半導体産業の黎明を軽視し、また米国等の潮流変化にも対応できませんでした。
2000年代には「LSIインフラ時代」に入ります。LSIがほとんど全ての電子機器に搭載される時代となり、LSIが製品機能に直結。ソフトとハードが一体化した技術開発のみならず、LSI設計における製品企画力が問われる局面で、日本企業の構造的特徴(市場ニーズに合わせた製品開発が苦手な組織・経営構造)がマイナス要因として作用します。
その後、世界は2007年サブプライム危機、2008年リーマンショックに直面。その底流では中国の急成長や米国新興IT企業やプラットフォーマーの勃興が起きていましたが、日本はそれらの動向にも鈍感だったと言えます。
2010年代は「IoT時代(新ITインフラ時代)」となりました。iPhone(2007年)iPad(2010年)が発売され、AppleやGoogleがカーナビOSに参入。AR/VR実用化、AIの急速な発展など、IC、SoCが生活サービス全体、全産業に影響を拡大しました。
その間、日本は2000年代スタートのルネサス、エルピーダが経営困難化。2019年にはキオクシア設立。ようやく日本の半導体産業の異変、衰退に気づいたものの、時既に遅し。
この間、2011年東日本大震災、2015年中国製造2025公表、2017年米中貿易戦争激化、2019年コロナ禍発生等の激動に直面。
そして2020年代の現在。「半導体戦略物資時代」となりました。いや、もともと戦略物資でしたが、日本はその意識が脆弱で、今日の失態を招いたと言えます。
10nm以下の先端半導体の過半を台湾に依存している状況下、台湾有事に備えて日米が独自に供給確保の動き。今月、日本のユーザー主要企業8社がラピダスを設立。2nm以下製品の生産を企図していますが、その成否は21世紀前半の日本産業経済の命運を握ります。
以上のレビューを総括すると、1970年代、80年代の日本は台韓中の産業政策に対する警戒心が皆無または超希薄であり、1989年から90年のバブルピーク時には、資産経済力を国力や技術力と錯覚してしまったと言えます。
DRAMで世界を席巻した一方、DRAMを大量使用する大型コンピュータ・通信機器からPCへのトレンド変化も見誤りました。
同時期、インテルはDRAM生産を止めてPC用マイクロプロセッサー生産にシフトして世界を制覇。
日本のビジコン社嶋正利氏はマイクロプロセッサーを発明しましたが、生産をインテルに委託。ビジコン社は特許取得の仕方が適切でなかったため、重要基本技術はインテルの特許となってしまいました。
1983年NEC製PC用プロセッサーはビジコンやインテル製に優っていましたが、米国の国家企業戦略に屈します。
1984年坂村健東大教授開発のOSトロンはWindowsより優れていましたが、米国司法省等の圧力で市場化に失敗。
1989年9月、内容的に不平等条約と言える「日米半導体協定書」に署名。これを機に日本半導体産業は解体の方向に向かったと言えます。
当時及び以後の日本の政官財指導層はグローバル化・新自由主義を表面的に捉え「自国製品に拘泥せず、モノは一番安いものを世界中から調達すればよい」との発想に陥っていました。
「安かろう、よかろう」という安易な思い込みが、今日に続く長い低迷期と産業競争力低下を招いた失敗の原因のひとつです。
この延長線上で日本企業は電子系技術開発人材を軽視し、半導体エンジニアをリストラ。台韓中に好待遇で引き抜かれる素地を形成しました。
台湾半導体史はメルマガ496号で詳述しましたので、ここで韓国サムスンの動向も簡単に整理しておきます。
1969年に李秉喆(イ・ビョンチョル)が創業したサムソンは、1977年に半導体子会社を設立。1980年代、韓国政府は日本のVLSIプロジェクトをモデルとしてサムスンに巨額の長期低利融資等で支援。1993年にDRAM市場で東芝を抜いて世界一を奪取しました。
1997年アジア通貨危機で韓国大企業30社のうち16社が破綻したのを契機に、サムスンは半官半民の韓国の命運をかけた国策企業に転化。
1996年に日本が日の丸半導体優位確保のためのプロジェクト「半導体先端テクノロジーズ」に日本メーカー10社以外にサムソンを参加させたことから、技術移転、エンジニア移籍の素地を形成してしまいました。
メルマガ496号の情報もマージしつつ、台湾と韓国の半導体史の特徴、日本との違いについて整理してみます。
まず台湾ですが、第1に、台湾は1980年代に米国IT企業勤務者や米国理工系大学院留学生を中心に海外台湾人材を重用しました。
第2に、IMD方式の企業体ではなく「ファウンドリー企業」という新形態(ビジネスモデル)に挑戦しました。そのことが、今日のTSMCの大成功につながりました。
第3にTSMCを誘致した科学学園区(国策サイエンスパーク)構築が奏効しました。日本でも特区構想等は多々ありますが、台湾の成功と比べると構造的な問題があると言えます。
第4に、TSMCが「収益より技術力重視方針」を徹底したことです。技術力重視の姿勢は人材重視にもつながりました。もちろん、創業者モーリス・チャンの慧眼です。
第4に、李登輝総統の「戒急用途」方針によって中国市場への過剰依存を抑止(とくに半導体産業流出を抑止)しました。
半導体のみならず、日本のあらゆる産業や企業が中国の安い労働力と市場を狙って中国進出に走ったのと対照的に、台湾は先端産業の国内保持方針を堅持。結果的に今日の成功につながっています。
韓国の特徴は、第1に国内市場よりも当初から輸出市場を想定して半導体分野に染手しましたことです。サムスン李秉喆の決断です。
韓国の国内市場規模が小さいことを踏まえた決断です。それに対して日本では、国内の電化製品、自動車等の需要規模も大きかったことから、半導体産業は総合電機機器メーカーの一部門としてビルト・イン。
国内市場向け製品を念頭に生産していた半導体が、1980年代は世界市場も席巻することにつながりましたが、逆にそのことがその後の低迷をもたらします。この点が韓国のみならず、台湾とも大きな戦略上の違いです。
第2に、上記に加え、通貨危機による財閥系企業再編が奏効。サムスンが徹底的に優遇され、かつ国内同質化競争を回避。協力して海外市場制覇を目指しました。日本企業同士で競争し、海外市場で足を引っ張り合う構造との差が出ました。
第3に、シリコンインゴット口径拡大、チップ微細化に伴う投資効率を重視し、不況期でも拡大投資を継続しました。これは、李秉喆の経営判断の成功です。
第4に、製品ではメモリ特化、市場では東南アジア重視。合わせて上記の継続的大規模投資等の経営戦略が奏効したと言えます。
2010年代以降、中国半導体企業も勃興。そうした中で、2019年2月24日、中国「新浪経済」という経済誌が、日本の半導体産業の失敗要因を分析して記事化。以下の4点を指摘しています。
第1に、組織と戦略の不適切さ。総合電機企業の1部門という制約が足枷になったこと。
第2に、経営者の素質。経営者が海外企業や海外ユーザーと直接交渉できる人脈と能力にかけていたこと。
第3に、強い排他主義。自社内一貫生産に拘り、半導体ファブレス企業が誕生する土壌がなかったこと。
第4に、技術重視で経営軽視の姿勢。技術重視はよいことでありますが、その技術が製品化されてこそ意味があるものの、そこが欠けていたたために技術重視がかえって弱点になったということです。つまり、市場分析力、製品企画力の重要性への鈍感さと指摘しています。
以上の内容からキーワードを列挙すると、トレンド見誤り・特許戦略ミス・国策ミス・情勢認識の甘さ・技術人材軽視・国家プロジェクト参加者の不適切な扱い・調達部品か戦略部品かの判断ミス・技術者国外流出・蓄積技術活用できず等々。耳の痛い話ばかりですが、現実を直視しない限り、復活はありません。
下流分野ではたいへん厳しい状況に追いやられた日本ですが、以前からお伝えしているとおり、半導体の中流分野(前工程)及び製造装置分野では相対的に競争力を維持しています。
その話をもう1度書いてほしいとの読者のご要望をいただきましたので、メルマガ410号(2018年11月24日)の第2項を再述しておきます。とりあえず前工程の話。製造装置の話は改めて書きます。ご参考になれば幸いです。
電気を流さないのは「不導体」、通すのは「導体」。通常は「不導体」ながら、ある状況下では「導体」になるのが「半導体」。その性質を利用してコンピュータが作られています。
「導体」の具体例は銀、銅、金、鉄、「半導体」は炭素、ゲルマニウム、シリコン、「不導体」はゴム、セラミックス、雲母。高校の物理・化学の授業のようで恐縮です。
半導体の生産工程は大きく分けると6段階。第1は原料の珪石採掘。第2は珪石から高純度シリコンの塊を精錬。第3は不純物を除いてシリコン(多結晶珪素)を製造。
第4はシリコンを砕いて溶かして単結晶シリコンインゴッドを製造。第5に、シリコンインゴッドを厚さ1mm程度に輪切りにしてウエハを作り、そこに回路を焼き付け(写真技術)。第6に、それを細断して半導体(チップ)を切り出し。以下、敷衍します。
第1段階。原料の珪石は地表岩石に約27%も含まれる元素。つまり、どこにでもありますが、主に中国、ノルウェー等で産出。精錬時の電力コストの低い国が主産地です。
第2段階。珪石から純度98%のシリコン塊を製造。珪石(SiO2)から酸素を除去してシリコン(Si)を抽出。加熱してC(カーボン)を加え酸素を引き離します(SiO2=Si+CO2)。
第3段階。シリコン塊をさらに高純度化し、多結晶シリコンを製造。純度は99.999999999%。9が11並ぶので、イレブンナインと呼ばれます。
第4段階。多結晶シリコンから単結晶のシリコンインゴットを製造。製法はチョクラルスキー(Czochralski)法(Cz法)、又はフローティングゾーン(Floating Zone)法(FZ法)に大別されますが、Cz法が主流。
Cz法では多結晶シリコンを砕き、石英坩堝(るつぼ)に入れて加熱炉で溶解。溶けたシリコンに種結晶を接触させ、回転させながら引き上げて単結晶のインゴットを作ります。
FZ法では、高周波電圧が流れるコイルで溶かし、種結晶を接触させつつ、コイルを上下に移動し、棒全体を単結晶化させます。
日銀時代に信越化学の半導体工場を見学した際、「FZ法の方が高品質で、FZ法で製造できるのは日本とドイツの2社だけ」と説明を受けました。
半導体と聞くとGAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)、マイクロソフト等を想像しますが、原料やシリコンインゴットがなければ何もできません。
第5段階。半導体製造の「前工程」。ウエハ(薄い円盤)を切り出し、表面に回路を焼き付け。具体的には、成膜(ウェハ上に薄膜形成)、露光(回路図焼き付け)、エッチング(不要部分削り出し)、不純物拡散の5工程です。
第6段階は「後工程」。ウエハ上の半導体(チップ)を個々に切り出し、パッケージ化します。具体的には、ダイシング(切り出し)、マウント(基板にチップ固定)、ボンディング(チップとリード配線接続)、モールド(チップを樹脂等のケースに封止)、マーキング(実装・刻印・製品化)、そして出荷の6工程。
封止する樹脂にカーボン粉を入れているため、パッケージは黒色が一般的。チップに光が当たると誤動作するため、遮光しています。
前工程の作業対象はウエハのみ。一方、後工程ではウエハであったり、チップであったり、パッケージ化された製品であったり、多様です。
一連の工程における課題は清浄度。半導体はナノ単位で製造されるため、空気中のパーティクル(ゴミ)や不純物、汚染(英語のコンタミネーションを略してコンタミ)等は大敵。
人間はパーティクルやコンタミの発生源になるため、清浄化した製造室(クリーンルーム)に入る際にはエアシャワーを浴び、無塵服を着用。企業によっては化粧禁止や無塵服着用前の水シャワーを義務づけています。
クリーンルームの清浄度は「クラス1」。1立法フィート中に0.1μm以上の粒子1個程度。山の手線内に仁丹が1粒あるぐらいの清浄度を意味するそうです。
日本はかつて前工程、後工程とも世界を席巻していましたが、後工程は韓国等に競り負け。前工程では依然として優位を維持していますが、油断大敵。ここも競争が激化しつつあります。
余談ですが、ウエハはウエハスという焼菓子に由来。英語のwaferの語源はドイツ古語で蜂の巣を意味する単語。蜂の巣状の凹凸のある焼菓子がウエハスであり、回路を焼き付けたシリコン円盤がそれに似ていることからウエハと呼ばれるようになったそうです。
(了)