米経済紙ウォール・ストリート・ジャーナルは今年1月3日付電子版で「日本の『失われた数10年』から学ぶ教訓」と題する記事を掲載。「失われた30年」の原因は日本が構造改革を行わなかったためと結論づけています。「30年間賃金停滞」「失われた30年」という事実が漸く共有されるようになりましたが、現状打開には経済や企業の「古い体質」「変われない組織風土」等の打破が必要です。「原因」と「結果」の関係を誤解せず、着実に改革に取り組まないと「失われた40年」への道に迷い込みます。
いわゆる「骨太の方針」すなわち「経済財政運営と改革の基本方針2023」が先月16日に閣議決定されました。
タイトルは「加速する新しい資本主義」「未来への投資の拡大と構造的賃上げの実現」。要約すると、高水準の賃上げや企業投資意欲盛り上がり等の前向きな動きを拡大すべく、「新しい資本主義」の実現に向けた取り組みを加速させ、「新時代にふさわしい経済社会」の創造を目指すということです。
「新しい資本主義」とは何か、「新時代にふさわしい経済社会」とは何か。それらが明確に定義されているわけではなく、曖昧な感じがしますが、一番気になるのは次の点です。
「骨太の方針」には、家計金融資産を開放し、持続的成長に貢献する「資産運用立国」を実現すると記されています。現預金偏重の家計金融資金を投資に振り向けるとしています。
「2000兆円の家計金融資産を開放し、持続的成長に貢献する資産運用立国を実現するためには、家計の賃金所得とともに金融資産所得を拡大することが重要」と記しています。
従来から言われている「貯蓄から投資へ」と何が違うかは別にして、なぜ現預金偏重になっているかの背景認識が的確でない場合、リスクを伴う方針と言えます。
「2000兆円の家計金融資産を開放」することのデメリット、とくにリスクについて吟味する必要があります。懸念はいくつかありますが、2点指摘しておきます。
第1は為替。現在、約2000兆円の家計金融資産の95%以上は円建てです。このうちの一定割合が外貨建て資産にシフトすると大きな円安圧力を生みます。
例えば、2022年末時点で家計は約1110兆円の現預金(円建て)を保有しています。このうち10%がドル等外貨預金に移ると、110兆円規模の円売りになります。これは2022年の経常黒字の約10倍に相当する規模です。
2022年に直面した1ドル150円水準の円安は輸入物価高等の懸念から日銀による為替介入に至りました。国民に資産運用を促し、その結果として家計金融資産が外貨建て資産に向かう場合の円安に政府・日銀はどのように対応するのでしょうか。
資産運用を企図してドル外貨預金をする家計にとって、円安ドル高は資産形成にはプラスです。政府が資産運用立国を推奨したからドル預金に運用する一方で、政府・日銀がドル売り介入する事態は論理矛盾であり、国民から見れば背信行為です。
今また150円ラインの攻防が迫っている中で、このタイミングの「骨太の方針」で資産運用立国を政策的に推奨するのであれば、せめて「円安ドル高による為替差益狙いの外貨資産運用は止めてください」と明記すべきでしょうか。いや、そんなことは恥ずかしくてできませんねぇ(笑)。
インバウンドをはじめ、「安い日本」を象徴する事象には事欠きません。そういう状況下で資産運用立国を推奨することの深層を熟慮したうえでの「骨太の方針」の内容とは思えません。
第2は、資金循環構造あるいは金利に対する懸念です。家計が円建て現預金という運用形態を指向してきた背景には日本経済の期待成長率が低いことも影響しています。個々の家計が「期待成長率」を意識しているわけではありませんが、要するに今の日本経済において現預金を選好することは合理的な行動だったのです。
デフレ下、あるいは物価安定下においては、理論的に最もリスクが小さい資産であるため、現預金運用には合理性があったと言えます。
しかし、異次元緩和、コロナ緩和、さらにはウクライナ戦争の影響から、ここにきてインフレ傾向が顕現化。この環境変化に対応して、現預金から他の資産へ運用シフトを奨める資産運用立国は論理的には理解できます。
家計や企業の現預金は銀行部門に貯蓄され、銀行がそのまま現預金を滞留させているわけではありまません。
銀行が預かった民間(家計・企業)の現預金は、政府が国債を銀行に買い取ってもらう格好で借り入れ、それを政府部門の消費・投資に充てています。平たく言うと、銀行は預かった現預金を国債に投資しています。そうすることで日本経済の資金循環構造はバランスしています。
国民に資産運用を奨めるということは、現預金が他の資産にシフトし、現在の資金循環構造が変わることを意味します。国債の買い手が減れば、国債市場の需給バランスに影響し、金利が上昇します。政府は円滑な国債発行に窮することになるでしょう。
現在の家計の現預金偏重にはそれなりに理由があり、それを変えることを政府が推奨するのであれば、政府自身も資金循環構造の変化を受け入れる必要があります。
「骨太の方針」は「家計金融資産の開放が持続的成長に貢献する」という論理で組み立てられています。
逆に言えば「家計金融資産が解放されなかったため、持続的成長が損なわれてきた」ということを主張しています。つまり「家計の現預金偏重は低成長の原因」という見方です。
しかし、前項で示したとおり、期待成長率が低いので家計は現預金偏重なのです。現預金偏重は低成長の「原因」ではなく「結果」という見方もできます。
銀行による国債投資は、低成長の結果として資金余剰部門となった家計や企業から預貯金が集まり、資金不足部門である政府へ銀行が資金を融通するという資金循環構造です。
円建て現預金を中心とする家計金融資産の構成も、それを原資として低位安定する国債利回りも、日本経済の実情を反映した結果です。
仮に「骨太の方針」が企図するとおりに「資産運用立国」が軌道に乗った場合、国債消化に影響しないのでしょうか。海外部門に消化してもらう構造転換が予想できますが、海外投資家はそれなりの金利を要求してくるでしょう。
「骨太の方針」の「資産運用立国」は、それに付随して懸念される為替や金利への影響、資金循環構造の変化への洞察が足りないような気がします。
毎年7月には「経済財政白書」が公表されます。昨年も7月29日に令和4年度版が公表されました。
タイトルは「人への投資を原動力とする成長と分配の好循環実現へ」。今後、賃金引き上げ等を通じて自律的な成長軌道に乗せていくことが重要と指摘しました。
今年の春闘では30年ぶりの賃上げ水準となったので、昨年の経済白書の指摘を受けて適切に対応したと政府は主張するでしょう。
さて、今年の経済財政白書はどういう内容になるのでしょうか。既に発表された「骨太の方針」を裏付けるように、「国民の資産運用が積極的でないことが問題」という指摘になるのでしょうか。
経済白書とは、内閣府(旧経済企画庁)が国民経済の年間の動きを分析し、今後の政策指針を示唆するために1947年(昭和22年)から毎年発行している報告書です。経済白書は通称であり、正式名称は年次経済報告です。
省庁再編を機に内閣府が発足した2001年(平成13年)以降は、「財政」が加わり、正式名称は年次経済財政報告、通称は経済財政白書となりました。
1947年7月4日、第1回の経済白書のタイトルは「財政も企業も家庭も赤字」。なるほど、その時点の国の経済状況を端的に示しています。
1956年の第10回経済白書「日本経済の成長と近代化」に記された「もはや『戦後』ではない」という表現が大流行語になりました。
1990年代のバブル崩壊後、通常の景気循環では説明できない回復の遅れについて、1994年版経済白書は以下のように分析しました。
要約すると、1980年代のバブル期に企業が資産・負債を両建てで増加させた結果、バブル崩壊で資産価格が下落して企業資産が減少する一方、負債はそのまま残り、残った過大な負債を調整していく過程が「バランスシート調整」であり、この調整を終わるまでは企業が投資を抑制し、経済全体にマイナスの影響が及ぶ、ということです。
今では当たり前の話ですが、当時は「バランスシート調整」という表現は斬新であり、「バブル後遺症」「不良債権問題」の始まりでした。
「バランスシート調整」はやがて終了するとの楽観的な予想に反し、その後も地価は下落。1998年版経済白書では、企業収益率が低迷しているのはバブル崩壊で発生した不良資産が不稼動資産として残存しているためであり、企業の「バランスシート調整」は完了していない、と指摘しました。
大阪万博開催を提唱し、主導したことで知られる堺屋太一氏が経済企画庁長官に就任したのは1998年。今の若い世代は堺屋氏の名前を知らないことでしょう。
その堺屋長官の下での1999年版経済白書に「3つの過剰」という言葉が登場。土地神話、消費神話、完全雇用神話という「3つの神話」が消滅し、設備・債務・雇用の「3つの過剰」を解消する必要があるとの文脈です。以下、原文です。
(平成11年版経済財政白書、原文ママ)雇用・設備・債務の過剰について個別に検討してきたが、これらは相互に関係した問題である。既にみたように設備過剰感は雇用過剰感と密接に関係している。これは、過剰設備の維持費のかなりの部分がそこで働いている人々の人件費であり、長期雇用慣行のもとでこれが固定費と企業に認識されていることを示唆している。こうした雇用が別の方向で活用される途が開ければ、設備の処理も進み易くなると考えられる。また逆に設備の売却などの企業再編に伴う障壁を低下させることが雇用の有効活用につながることも考えられる。企業の債務の中にも、結果的には過大となった設備投資をファイナンスしてきた部分がある。債務の重圧が軽減されれば、これまでのいきさつにとらわれずに企業活動の再構築が進め易くなる可能性があろう。
堺屋氏本人がこの論理や文章の作成にどの程度関わっていたかはわかりませんが、バブル崩壊後の不良債権処理に焦点を当てた「バランスシート調整」論が、雇用・設備・債務の過剰を適正水準に抑制するという「3つの過剰」論に進化したと言えます。
しかし、結果的にこの判断が「失われた30年」の原因のひとつとなります。言わば「後ろ向き経営」「消極経営」路線であり「雇用も設備もコスト」という潜在的意識を浸透させました。
企業は設備投資の規模をキャッシュフローの範囲内に収め、労働者に対する設備装備率は低下し、技術革新への取り組みも世界に後れを取る契機となりました。
将来需要を創造、獲得するための「前向き投資」を抑制し、「積極経営」にチャレンジしないので収益も売上も伸びず、労働者数で除した労働生産性は低下。つまり、労働生産性低下は経済低迷の「原因」ではなく「結果」です。
こうした状況下、企業の雇用対策は安い労働力を得ることに傾斜。このことが、既に広がっていた非正規雇用や技能実習生の社会問題を深化させました。
「3つの過剰」は経済財政白書2005年版で「ほぼ解消した」と書かれ、中小企業白書2006年版でも同様の内容が記されました。この分析評価が的確であったか否かは疑問ですが、「後ろ向き経営」「消極経営」が定着したとも言えます。
この間、企業収益力は超低金利政策に下支えされていました。法人企業統計から利払い前ベースの売上高経常利益率を算出してみると、2000年代はバブル崩壊後の1990年代の水準をも下回っています。
つまり「バランスシート調整」を終え「3つの過剰」を解消しても、利益率は改善していないため、計算結果として算出される労働生産性が低いのは当たり前です。
この時期、技術革新の進化やそれに伴う世界の変化は劇的に加速。日本はそれに乗り遅れました。と言うより、状況認識ができず、2010年代も「井の中の蛙」状態が続きます。
何しろ、2008年リーマンショック後には「3つの過剰を乗り切っていた日本企業への影響は欧米中企業に比べて軽微」との論調すら聞かれました。
一面真実ですが、リーマンショックで新陳代謝が高まった欧米中産業界では、2010年代にIT系を中心とした新興企業がさらに勃興。次々とユニコーンが誕生していきました。2000年代の対応の失敗と認識の齟齬は2010年代のさらなる失敗を誘発したと言えます。
法人企業統計から1960年度と1975年度の製造業と非製造業の付加価値額を見ると、それぞれ3.9兆円(製)と3.0兆円(非製)、32.6兆円と45.1兆円。1975年時点で非製造業が上回っており、産業のサービス化、第3次産業中心経済の始まりです。
中国の工業化が進み始めた1980年代以降、日本の製造業の付加価値額は停滞。1990年代から2000年代半ばまでは停滞どころか減少。
2021年の製造業と非製造業の付加価値額は81.3兆円と218.7兆円。非製造業が製造業の2.7倍になっています。
ベンチャー、スタートアップ云々と言われ始めて久しいですが、技術とビジネスモデル(またはライフモデル)の2つが揃って初めてブレークします。
「スマホ」という新たなライフモデル、ビジネスモデルを創造したからこそ、スマホをプラットフォームとした様々なサービスが普及しました。日本の企業や財界、いや社会は「その点」が著しく苦手です。
「その点」とは「新たなライフモデル、ビジネスモデルを創造すること」及び「それを目指して技術を開発し、活用すること」です。
経済政策、産業政策のみならず、人材育成を担う教育政策も20世紀型製造業全盛期の構造が前提となっています。表面的には時代の潮流に合わせて改革しているように思えますが、底流では20世紀型モデルの遺伝子が色濃く残っている印象です。
コロナ禍で雇用調整助成金が役立ったという評価がある一方、20世紀型の企業退職金制度や雇用調整助成金が労働人材流動化の障害となっているとの指摘もあります。
デジタル人材不足も深刻です。現役層のリスキリングだけでは不十分であり、20世紀型の教育政策・教育制度の基本構造を改めることが必要でしょう。その取り組みは、将来の日本経済や産業構造に必要な人材を想像します。
雇用・設備・債務の「3つの過剰」論が生み出した日本経済の現状ですが、今は人材・資金・技術の「3つの不足」をどう乗り越えるかが課題です。
人材・資金・技術の順番が大事です。技術を生み出せと大号令をかけても、それを生み出すのは人材です。開発には資金が必要であり、その先に技術が誕生します。
そして、その技術をブレークさせるためには、新しいライフモデル、ビジネスモデルを生み出す分析力、想像力、創造力です。それらを備えた人材育成こそが、「失われた30年」を脱し、「失われた40年」に迷い込まないための鍵と言えます。時間はあまりありません。
(了)