前回に続いて日本型経営の功罪、顛末について記します。僕が日銀に就職したのは1983年。各局に初めてPCが1台ずつ配備され、新人の僕も使用を命じられました。機種は富士通FACOM9450Ⅱ。携帯電話は存在しません。SFの話です。インターネットは誰も知りません(翌1984年、東工大と慶大の間に初めてインターネット回線敷設)。今考えれば古き良き時代、日本型経営全盛期でした。
1950年代に半導体(集積回路)産業が立ち上がった米国では、技術情報等を基本的に公開。自国の技術水準や企業に対する自信の為せる業でした。
1960年代後半以降、その情報を基に製造技術を獲得し、ブームに乗ったのが「日の丸半導体」でした。詳しくはメルマガ499号(2022年11月28日号)をご覧ください。
半導体の次の隆盛したPCについても、1980年代に米IBMがOSやCPUの仕様を公開。日本は情報をフォローアップし、相対的に安い人件費と器用な技術力でPC製造でも米国に肉薄。
しかし、好事魔多し。日米間の貿易摩擦が過熱。1986年、日米半導体協定によって、米国はロジック、日本はメモリーという棲み分けに合意。第1の「魔」、戦略ミスです。
さらに不運なことに、半導体産業拡大・PC普及が本格化する1990年代に入ると、日本はバブル崩壊に直面。
1990年代にはインターネットが浸透し始め、技術情報も拡散。新興国(韓国、台湾等)でも半導体やPCを生産可能な時代になりました。
日本はバブル崩壊直後。日本企業がバランスシート調整、「3つ(設備・債務・雇用)の過剰」削減に腐心する一方で、韓台の半導体・PCメーカーは設備・人材投資に注力。第2の戦略ミスです。詳しくはメルマガ514号(2023年7月12日号)をご覧ください。
決定的転機は1995年。Windows 95が発売され、PCやインターネット普及が加速し、世界で新興企業が勃興。その大事な1995年から2000年の間、日本は金融危機に直面し、企業は守りの姿勢、内向き経営に向かいます。
この時期、コンピューターの主流がメインフレーム(大型汎用機)からサーバー・PCに移行。安価なDRAM(汎用メモリー)生産を忌避した日本企業に対し、韓国勢は価格優先でメモリー半導体に特化。1999年、日本企業はDRAMから撤退、PC生産も縮小。第3の戦略ミスです。
この間、日本企業の経営に影響したのが現場優先主義。1970年代以降の日本企業の隆盛には、部品間の擦り合わせ技術等、現場の優秀な「ものづくり力」が寄与していました。いわばアナログ時代の職人的技術力が競争力の源泉。
優秀な現場を抱える企業の場合、日本型経営の中で昇進してきた経営者が、現場の意向を汲まずに経営戦略を断行することは困難。むしろ、現場優先主義を錦の御旗に、自ら経営判断を下すことが不得手であったようです。
外部環境変化への対応は、現場ではなく、経営判断に委ねられる局面でした。情報を収集し、情勢を見極め、先を読んで新たな状況を自ら創造する戦略を打ち出すのが経営力。事業や投資を取捨選択できる経営者の存在が鍵でした。
しかし、日本型経営、新卒一括採用の下で、同じ経験を共有しつつ昇進した生え抜き経営者にはそうした経営力が十分備わっていなかったと想像できます。スピードと決断が求められた局面において、時間を要するボトムアップ式の経営から転換できず、商機を失う、あるいは結果的に的確な判断ができなかったと言えます。
とくに2つの環境変化への対応が後々尾を引きます。第1は水平分業に対する対応です。1995年秋、某大手電機メーカー幹部が香港を訪問した際、運送会社の倉庫で電子機器が流れ作業で整然と組み立てる様子を見て驚いたというエピソードが語り継がれています。
それから5年後の2000年、スイスの半導体メーカーがインドで1千人の半導体技術者を雇用し、インターネットを駆使して本社と米国とインドを結んだ時差を越えた開発生産体制を構築。ニュースになりました。
インドのバンガロール(現ベンガルール)という都市名を初めて聞いたのはこの時。今や世界に知られる「インドのシリコンバレー」です。
そこで起きていたことは垂直分業から水平分業への転換です。日本型経営全盛期の日本企業は、原材料を途上国から輸入し、必要な部品を下請け企業に生産させ、それらを集めて国内で完成品に仕上げる垂直分業が主流でした。
新興国・途上国が産業競争に参入し、時差は関係なくなり、本格的かつ国際的な水平分業が可能になりました。
日本企業は、海外から安い部品を調達する、海外に工場進出して低賃金で部品を生産する方向に転換。この転換は成功した面もありますが、言わば垂直分業を国際的に行ったに過ぎないとも言えます。
結果的に国内産業空洞化、国際競争力低下等の事態を招来。本格的な水平分業に転換しなかった(できなかった)ことは、第4の戦略ミスとも言えます。
第2はグローバル化への対応。米ソ冷戦が終結し、旧ソ連・東欧圏が西側市場経済に組み込まれ、それまで約8億人であった市場規模は約12億人に拡大。
さらに1990年代後半から2000年代、改革開放を掲げた中国を筆頭に、勃興期を迎えたインドや東南アジア諸国も市場経済に参入。貧困層を除く世界の市場規模は冷戦時代の数倍に膨張。消費者としてだけでなく、生産者としても参入し、上記のような水平分業に組み込まれていきます。
この地球規模の変化に対して、海外市場をターゲット化することに関して後手に回りました。第5の戦略ミスとも言え、海外市場を取り込むどころか、米中韓印等の企業に日本市場に喰い込まれている状況です。
1990年代以降、日本型経営の問題点が徐々に認識され、改革も叫ばれるようになりました。大手・中堅を中心に多くの企業が表面上は米国型経営を模倣しました。
実は、経団連や日経連は1950年代から日本型経営、とりわけ終身雇用・年功賃金の見直しを模索。ところが、メルマガ前号で指摘したように、その指向性とは裏腹に、実際には「企業間共通の評価基準」導入に消極的でした。
「企業間共通の評価基準」導入によって人材流動性が高まると、自社で育成した人材が他社に流出することを警戒したためです。
その結果、実際に実現した見直しは日本型経営の基本構造を変えないまま、人件費を削る工夫が中心。具体的には、非正規雇用増大、人事考課による昇給抑制、子会社への出向増加、技能実習生活用等の現象として顕現化しました。
それらの見直しで人件費は削減できましたが、雇用不安定化と賃金低下(伸び悩み)傾向が構造化。勃興した新興国の低い人件費に対抗しようとすれば、ますます国内賃金を引下げ、それでも及ばなければ海外進出というパターンに陥っていきました。
一時は「日本にはマザー工場だけあればいい」という論も盛んとなり、国内の産業空洞化と雇用環境脆弱化を助長。
その最中、1995年に日経連が経営改革ビジョン「新時代の日本的経営」という報告書を発表。従来の日本的経営が有する「人間中心の経営」「長期的視点に立った経営」という良さを残しつつ「無駄な部分を徹底的に削ぎ落す」という謳い文句でした。
報告書は「長期蓄積能力活用型グループ」「高度専門能力活用型グループ」「雇用柔軟型グループ」という3種類の労働形態を組み合わせた雇用ポートフォリオ概念の導入を提唱。
第1の「長期蓄積能力活用型グループ」は正規雇用従業員を指し、幹部や幹部候補、管理職、総合職、技能部門基幹職等が該当します。
第2の「高度専門能力活用型グループ」は、特定分野の専門性を有し、知識や技術で会社に貢献する人材。有期雇用の場合が多く、従来の日本型経営には存在しなかった類型です。
第3の「雇用柔軟型グループ」は、有期雇用・時給制のパート・アルバイトの労働者です。期間工や繁忙期の臨時販売員、派遣の事務職や技術職等です。
その後の日本経済、日本企業の顛末を省みれば、結果的に、「日本型経営」の系譜を継ぐ「第1グループ」を護るために「第2グループ」「第3グループ」が人件費削減の一環として活用されたという現実を否定できません。
真の企業戦略を伴わない人件費削減経営だけで世界の激変を乗り切ることはできません。日本型経営が日本企業の基盤を弱体化させる傾向は続き、2019年、遂に経団連会長が「終身雇用を前提にすることが限界になっている」と発言。ニュースになりました。
同年、政府も呼応して「多様な働き方を選択できる社会の実現を目指す」という謳い文句で「働き方改革関連法」を施行。労働時間法制見直しや公正待遇確保を掲げて日本型経営の転換を促しました。
早期・希望退職者を募る企業が増加し始め、転職率も上昇。労使双方から終身雇用に拘らない傾向が出始めた直後に、世界はコロナ禍に直面。産業・雇用が打撃を受け、リモートワークが浸透するなど、働き方に変化をもたらしています。
さて、これからどうなるのでしょうか。今まさに重要な転換点に立っています。そういう認識の下、前回・今回と改めて日本型経営論を書き記しています。
そもそも、日本型経営は失業率引下げに寄与していたのでしょうか。日本型経営を具現化していた大企業・中堅企業で働く労働者は全体の2割未満。日本の雇用を支えていた中心は中小企業や自営業者です。
人材流動性は高く、中小企業労働者の7割は定年までに数回の転職を経験。失業率が低かったことや、貧困が少なかったことは、日本型経営の外側にあった中小企業や自営業者の貢献と言えます。
しかし今や、その中小企業や自営業者が疲弊し、非正規雇用が増加。地方経済の脆弱化、貧困の増加、社会の不安定化等の現象につながっています。
もちろん、大企業・中堅企業の日本型経営も徐々に変化しています。雇用統計を見ると、勤続30年以上の労働者は従業員1千人超大企業の男性中心で約8%存在し、この部分は1980年代以降あまり変化していません。
ところが、労働者の勤続年数階層別の構成割合を見ると、日本全体の労働者の平均年齢が上昇しているにもかかわらず、勤続10年以上の男性労働者の割合は減少傾向。このデータから、終身雇用構造が変化しつつあることを読み取れます。
戦後の終身雇用の正体は好景気に支えられた「長期雇用関係」だったという指摘もあります。つまり、日本型経営云々ではなく、景気動向等のマクロ経済要因の影響が大きかったという見方です。
前回ご紹介した元祖日本型経営とも言われる鐘紡・武藤山治翁自身が雑誌「ダイヤモンド」1930年2月11日号「鐘紡引退所感」の中で次のように述懐。冷静な見方です。
曰く「私の従事した紡績業が、偶然にも、会社の進歩発達に伴う事業でありましたので、世間から成功者のように言われます」。
日本型経営によって日本経済が繁栄したのではなく、戦後復興、高度成長の流れに乗った企業の経営スタイルが日本型経営であったということです。「原因」と「結果」の認識、因果関係分析を誤ると、日本経済はさらに混迷を深めます。
日本経済と日本企業にとって、日本型経営の功罪を冷静かつ客観的に凝視・分析し、変えるべきところは真剣に変えなければならない局面です。さて、本当に変われるでしょうか。
昨年「日本はNATOだ」と言われました。ロシアのウクライナ侵攻に伴い、日本もNATO(北大西洋条約機構)とどのように関わるべきかという課題が浮上していますが、そのNATOではありません。
「No(Not)Action Talk Only」を略してNATO、つまり「言うだけで何もしない」という意味。コンテナ船が日本の港をとばす「抜港」急増について調べている時に、外国海運会社の人から聞いた言葉です。
2000年代以降、韓国釜山や中国上海のコンテナ取扱量が急増し、日本寄港数が激減。コロナ禍で物流が滞った際には、時間短縮のためにさらに日本抜港の動きが広がりました。
日本抜港の発端は1995年阪神・淡路大震災です。神戸港に寄港できない船は釜山港に回航。1994年にコンテナ取扱量世界6位だった神戸港は復活することなく、2021年は73位です。
抜港だけでなく、定期航路も激減。今や日本発コンテナ輸送量は世界全体の僅か1%。抜港や定期航路減少が続けば、輸送日数や積替コストが嵩み、日本の競争力低下に直結します。
日本ではあまり知られていませんが、米国バイデン政権はコンテナ港の操業時間延長や夜間搬出を指示する大統領令発出。港のインフラ改善、物流情報プラットフォーム構築のための政府投資170億ドル(約2.5兆円)を決定。サプライチェーン強化に腐心しています。
それに比べて日本政府の対応は脆弱。「とん税」引下げ等の努力はしていますが、それでも釜山や上海より高い状況が続いています。
海運会社や輸出企業の危機感に対して理解を示しつつも、政府は対応が遅く「言うだけで何もしない」と日本を揶揄する表現が「NATO」です。
政府だけではありません。外国海運会社から見ると日本の輸出企業や海運会社との価格交渉等は「社内調整が多く、時間がかかり過ぎ」「取引メリットが感じられない」という厳しい評価。これも決定が遅く、決定権限が誰にあるかわからない日本型経営の特徴のひとつです。
島国日本は貿易貨物の約99%が海上輸送。20年前のコンテナ船最大積載数は7千個程度でしたが、今や2.5万個。受入可能な港は横浜ぐらいです。
収益になる貨物が減り、少子化・人口減で内需も頭打ち、安い商品しか買わない、時間も手間もかかる、積載率も低い、港も小さいとなれば、外国海運会社が日本を抜港するのは合理的な判断です。
NATOという隠語を取り上げたのは、日本型経営見直しもNATOになっていないかという懸念からです。1995年日経連報告書の二の舞では困ります。
新卒一括採用・終身雇用・年功賃金の日本型経営の下では、建前上、全社員が管理職候補。昇進可能性があるからこそ、社員のモラルとモチベーションが高まりました。
「頑張りしだいで昇進できる」と思うからこそ「現場がメチャクチャ頑張る」日本企業の風土が形成されました。「日本人は働き過ぎ」の原因のひとつです。
不況時、米国では日本と桁違いに多い失業者が発生しますが、米国の失業は日本の失業よりも深刻度が低いという見方もあります。雇用と解雇の重みの違いです。
米国では解雇が簡単な一方、雇用されることも比較的容易。日本では解雇が難しいからこそ、雇用も容易ではないということです。
人材流動性の高さは米国経済のダイナミズムにつながり、イノベーションが起こり易く、新興企業が勃興し易い経済を生み出しています。一方、格差や貧困等の社会問題は深刻です。
人材流動性が低い日本型経営は改善すべき点があるものの、社会の安定性には寄与しています。しかし、技術革新や変化が加速している状況下、人材流動性の低さの弊害も看過できません。純粋培養・内部昇進の限界も露呈しています。
日本型経営を巡る周辺要因として、マクロ経済政策(財政金融政策)も挙げておきます。1980年代まではマクロ経済政策で景気を浮揚し、企業と雇用を支えていました。
ところが1990年代以降、マクロ経済政策の効果は逓減。1990年代の成長率は年率1.4%に低下。2000年代、2010年代は1%を割込みました。
2010年実質GDPは約514兆円、2020年は約527兆円。10年間で13兆円しか増えておらず、1人当たりGDP(2022年)もOECD加盟38ヶ国中21位まで後退。米国の半分に過ぎず、韓国が肉薄。マクロ経済政策の効果で日本型経営の弊害を塗布できなくなりました。
多くの大企業が経営の監督と執行を分掌する委員会等設置会社に移行しています。しかし、有効に機能しているか否かは定かでありません。
戦前財閥系持株会社(財閥本社)は傘下企業の経営を厳しく監視し、時に大株主が兼任役員として取締役会に直接参加。個人投資家のような株主も複数の企業に兼任役員として加わっていました。
戦後の財閥解体で監視機能が弱まり、持株会社・メインバンク制の下で銀行の支配力が突出。その構造が有効に機能していたのは1980年代までです。
経営トップが変革を恐れるようでは日本型経営見直しはNATOです。進退を掛けるほどの真剣さで取り組まなければ日本型経営見直しはNATOに終始するでしょう。
労働力固定化は産業と企業の新陳代謝にはマイナスです。新しい産業は労働力を獲得できず、発展が阻害されます。労働者にとっても市場価値の低い所属企業固有の職能習熟に時間を費やすことは、自身の労働市場における価値を低めます。
男性中心の雇用を前提とした日本型経営は限界を迎えています。女性、高齢者、フリーランス等、様々な立場の人材を適正に評価し、十分な賃金を払い、柔軟で多様な働き方、生き方を尊重する企業が、従業員の能力を最大限に引き上げ、成長する確率が高いと思います。
表面的な対応で本当はNATOになっていないでしょうか。日本型経営のみならず、様々な分野の改革について、熟考と自問自答が必要です。
(了)