トランプ政権によるハーバード大学の留学生追い出しを受けて、日本を含めて各国が受け入れ姿勢を示しています。香港やシンガポールも積極的であり、対象留学生には人気の避難先だそうです。中国の報道機関は「これで中国から米国への人材流出、頭脳流出が止まる」とも表現しています。関税政策も混迷が続いていますが、今回は、トランプ政権の通貨政策に関連した内容を記したいと思います。
トランプ政権の政策に関連して「トリフィンのジレンマ(Triffin Dilemma)」という用語が時々登場します。
これは1960年頃にベルギー出身の経済学者ロバート・トリフィンによって提起されたもので、基軸通貨国が抱える(直面する)構造的矛盾のことを指します。
「トリフィンのパラドックス(The Triffin paradox)」「流動性のジレンマ(The liquidity dilemma)」とも呼ばれます。「トリフィンのジレンマ」の基本構造は次のとおりです。
国際経済の安定と発展のためには十分な量の基軸通貨(現在では米国ドル<以下、単にドル>)が流通している必要がある一方、基軸通貨発行国(現在では米国)は自国通貨の過剰流通に伴う通貨安、貿易赤字、資本流出を余儀なくされているということです。
主張の正否は別にして、実例として米国の状況を当てはめると次のような説明が成り立ちます。「トリフィンのジレンマ」はブレトンウッズ体制の下でのドルの役割についての文脈でよく議論されます。
第2次世界大戦後、ブレトンウッズ体制の下でドルは金と交換可能な唯一の通貨として基軸通貨の地位を確立しました。
世界の貿易と投資にはドルが必要となり、米国はドルを国外に流すため、経済構造上は経常赤字や資本流出を増やさざるを得なくなりました。
その結果として、米国が経常赤字を出し続け、ドルの価値や信用が低下しました。諸外国は「ドルは本当に金と交換できるのか」と疑問を持つようになり、最終的にドルの信用不安に繋がりました。
そうした状況を受け、1971年8月15日、ニクソン大統領がドルと金との交換停止を宣言し(いわゆる「ニクソン・ショック」)、ブレトンウッズ体制は崩壊。言わば「トリフィンのジレンマ」の顛末です。
現在のドル本位体制の下でも「トリフィンのジレンマ」は続いており、この考え方に基づく認識がトランプ大統領の主張に繋がっています。
つまり、現在もドルは世界の基軸通貨です。基軸通貨を世界経済に提供し続けるために、米国は経常赤字と財政赤字を出し続ける必要があります。一方、米国の対外債務やドル安への懸念は根強く、米国の財政・通貨政策の安定と世界経済の安定が常にトレード・オフ関係にあります。
「トリフィンのジレンマ」を克服する手段として次のような提案がなされています。
第1に、国際通貨基金(IMF)の特別引出権(SDR)を国際準備資産にすること。あるいは、それに準ずる基軸通貨的資産を創造すること。ジョン・メイナード・ケインズは、そうした文脈からバンコールという国際通貨の創設と利用を主張しました。SDRはバンコールに近いですが、ドルに代わって実際に導入、普及するには至りませんでした。
第2に、基軸通貨を1国の通貨から、複数国・多国間通貨にすること。かつてのEEC(欧州経済共同体)EC(欧州委員会)における「欧州バスケット通貨」のようなイメージです。
第3に、世界共通のデジタル通貨を導入すること。但し、その技術的裏付けとなる暗号化技術等が絶対に侵害されないレベルのものでなければなりません。現実の暗号解読技術の加速等を鑑みると、基軸通貨的価値を担保するデジタル通貨の実現も容易でありません。
2007年から2010年にかけて世界通貨危機と言われた時期がありました。とりわけ2008年にはリーマンショックが起きましたが、その直前(2008年3月29日)、中国人民銀行の周小川総裁が「Reform the Internatinal Monetary System」と題したスピーチの中で「トリフィンのジレンマ」に言及しました。
総裁は、金融危機の背景であるグローバルな貯蓄と投資の不均衡への寄与する要因として基軸通貨としてのドルが抱える構造問題を指摘し、IMFを通じた国際通貨体制の改革と強化を提案しました。
トランプ政権の政策を巡り、大統領経済諮問委員会(CEA)のスティーブン・ミラン委員長が昨年11月に公表したレポート「A User’s Guide to Restructuring the Global Trading System(世界貿易システムの再構築に関するユーザーガイド)」が話題になっています。
つまり、その内容がトランプ政権の政策を示唆していると見られているからです。レポートの骨子は以下のとおりです。
国際的な経済不均衡の根本原因は、基軸通貨であるドルの過大評価にあります。その結果、米国の「双子の赤字(経常赤字、財政赤字)」を拡大しています。
ドルの持続的な過大評価は非対称的な貿易条件を生み出し、米国の輸出競争力を低下させ、輸入品を安価にし、製造業を不利にしています。対中国貿易の結果として、2000年からの11年間で米国製造業の雇用が100万人減少。中国以外を含めると、非対称的な貿易条件によって失われた雇用は200万人に迫ります。
こうした米国の状況は「トリフィンのジレンマ」が想定した事態です。米国が経常収支赤字を通じて基軸通貨を提供し続け、そのために輸入を増加させ、貿易不均衡を甘受する現状に繋がっています。
関税に関しては、2018年から19年の米中貿易戦争において、中国からの輸入品の実効関税率が17.9%上昇した一方、人民元はドルに対して13.7%下落、輸入価格は4.1%の上昇にとどまりました。為替変動により関税収入増の大部分が相殺され、インフレ圧力は限定的だったと言えます。
ドルの過大評価の是正には、関税率引上げのほか、多国間通貨協定が有効です。1985年のプラザ合意や87年のルーブル合意と同様に、米国は他国と協調してドル高是正に取り組む必要があります。トランプ大統領の私邸に因み「マール・ア・ラーゴ(マララーゴ)協定」と称する新たな通貨協定を模索するべきです。
また、基軸通貨の役割は安全保障と密接に関連しています。米国が提供する防衛体制の財政負担を賄うために同盟国は米国債を購入し続けるべきですが、この関係はドルの地位強化に繋がる一方、ドル高を通して米国製造業の競争力低下をもたらしています。
したがって、「マール・ア・ラーゴ協定」では、第1に米国の提供する安全保障の見返りとして各国が米国債を購入すること、第2に短期債から「長期世紀債(100年満期の譲渡不可能なゼロクーポン債)」への移行により米国の実質的資金調達負担を軽減するここと、第3に米国債を購入・保有しない国には関税率引上げを行うこと、を想定しています。
このように、通貨政策と安全保障政策を連携させることで、ドルの過大評価が是正され、米国製造業の競争力回復にも寄与することを期待しています。
要するに「ミラン論文」の3本柱は、通貨政策の調整、関税政策の強化、安全保障と経済政策の連携です。とりわけ、米国が同盟国や国際社会に安全保障を提供することと引き換えに、各国が保有する米国債を100年満期の譲渡不可能なゼロクーポン債、すなわち事実上の永久債にスワップすると記している点が重要です。
「ミラン論文」に対する評価は百家争鳴ですが、トランプ大統領の言動は「ミラン論文」の骨子に沿っています。
就任早々に関税率引上げに言及し、3月12日から1962年通商拡大法232条を根拠に鉄鋼製品に25%、アルミ製品に10%の追加関税を課す措置を実行に移しました。
トランプ大統領や関係閣僚の発言の中で、関税強化の目的として、国内製造業復活、貿易不均衡是正、安全保障強化、政府歳入増加(財政赤字削減)等々、様々な意図が語られることが議論を複雑にしている面がありますが、それは「ミラン論文」に沿った主張です。
但し、矛盾も抱えています。例えば、関税率引上げとドル安誘導は矛盾しています。関税率が上がると輸入品価格が上昇して輸入が減る一方、輸出に対する制約はないため、貿易赤字が縮小します。そのためドルの供給が減り、ドルは上昇しやすくなります。
関税率引上げに伴う輸入品価格上昇はインフレ圧力を高め、国内の金利上昇傾向を誘発し、その点でもドル高に繋がります。
以上のような矛盾等を鑑みると、関税率引上げは、世界貿易縮小、供給網混乱、物価上昇、ドル高進行、新興国経済への打撃、米国製造業混乱(生産コスト上昇、サプライチェーン寸断)、世界経済の不確実性拡大等々、様々なマイナス効果が懸念されます。
関税率引上げは、短期的には米国製造業の保護に繋がるかもしれませんが、長期的には世界経済を混乱させ、米国自身もインフレ等を通して景気後退リスクを高める蓋然性が高いと言えるでしょう。
最悪のシナリオでは、貿易戦争激化、世界経済縮小、米国経済停滞、金融市場混乱等々の「負の連鎖」に陥る危険性があります。
メルマガ555号で「スティーブン・ミラー」についてお伝えしましたが、ここで登場した「スティーブン・ミラン」とは別人物です・
ちょっと復習ですが、スティーブン・ミラー(Stephen Miller)は政策担当副首席補佐官。第1次トランプ政権でも政策顧問を務めました。第1次、第2次で一貫して側近として仕えている数少ないひとりです。
2007年、デューク大学卒業。卒業後の7年間はトランプ政権の初代司法長官に指名されたジェフ・セッションズ上院議員の演説秘書を務め、2016年大統領選挙の期間中は1日に数本の演説をスラスラと作成したため、「書く機械」というニックネームがつきました。
ミラーが起草した「忘れられた人たち」に向けた「私はあなたたちの声になる」という訴えは、トランプが当選する原動力のひとつになりました。
2017年1月20日、大統領に就任したドナルド・トランプがミラーを政策担当上級顧問に任命。「アメリカファースト」を宣言した大統領就任演説の起草者もミラーでした。トランプの主張を上手く草稿で表現できる側近として信頼を得ており、今後もミラーの動静からは目が離せません。
バイデン政権に移行後の2021年、ミラーは保守系法律組織のアメリカ・ファースト・リーガル財団を設立して活動していました。
2022年9月8日、ミラーは連邦大陪審から召喚され、2021年1月6日の連邦議会議事堂襲撃事件について尋問を受けました。
第2次トランプ政権発足が確実になった2024年11月13日、ミラーは政策担当の首席補佐官代理兼国土安全保障担当補佐官に指名されました。ミラーは、マーク・ザッカーバーグやイーロン・マスクとも親密な関係を築いており、トランプ大統領の側近として重要な役割を果たしています。
その後ミラーは、トランプ大統領が就任直後の短期間に大量の大統領令や新たな政策を発表する「洪水(flood the zone)戦略」を推進しました。
出生地主義の廃止やメキシコの麻薬カルテルを外国テロ組織に指定しようとする試みなど、トランプ大統領が就任初日に署名したほとんどの大統領令の起草や調整はミラーが行ったと言われています。
さて、「ミラン論文」のスティーブン・ミランは上記のミラーとは別人物です。ミランはエコノミストで、上述のとおりトランプ大統領からCEA委員長に任命されました。
ボストン大学で経済学、哲学、数学を学び、ハーバード大学で経済学の博士号を取得。指導教官は高名なマーティン・フェルドシュタイン博士です。因みに、フェルドシュタイン博士もレーガン政権のCEA委員長でした。
トランプ政権第1期目にはムニュチン財務長官の上級経済政策顧問を務め、バイデン政権時代にはハドソン・ベイ・キャピタル・マネジメントのシニアストラテジストや、資産運用会社アンバーウェーブ・パートナーズの共同創設者として活動していました。
昨年7月、ミランはニューヨークに拠点があるシンクタンク、マンハッタン研究所の研究員として経済学者ヌリエル・ルービニ氏と共同で、米財務省がバイデン政権支援のために実質借入コストを押し下げる形で米国債発行を操作したと指摘する論文を発表。もっとも、イエレン財務長官はその内容を否定しています。
そして11月には、上記の「ミラン論文」を発表。上述のとおり、①米国が提供する安全保障の見返りとして他国が米国債を購入、②短期債から「長期世紀債」への移行により安全保障の資金調達負担を軽減、③債権を保有しない国には関税を課すことで協定への参加を促す、の3点を骨子とした内容であり、ドル高是正のための多国間通貨協定「マール・ア・ラーゴ協定」を推奨しています。
第2次トランプ政権発足前の昨年12月22日、ミランはCEA委員長に指名され、今年3月12日の上院本会議で賛成53票・反対46票によって同人事は承認されました。
その後ミランは、第1次トランプ政権で導入された中国製品や鉄鋼・アルミニウム製品への追加関税はインフレを引き起こすことなく歳入を増やす効果的な手段であったと発言したほか、米国の平均関税率を現在の約2%から20%程度、場合によっては50%に引き上げることが有益だと主張。トランプ政権の関税政策を先導しています。
米ホワイトハウス西隣のアイゼンハワー・エグゼクティブ・オフィスビル(Eisenhower Executive Office Building<EEOB>通称「アイゼンハワー行政府ビル」)4階に、CEA委員長ミランの執務室があります。
4月25日、米最大手ヘッジファンド、シタデルの創業者ケネス・グリフィンCEO(最高経営責任者)を筆頭に、大手投資ファンド、カーライルグループのハーベイ・シュワルツCEO、投資銀行最大手、ゴールドマン・サックスのジョン・ウォルドロン社長ら、主要金融機関のトップ10人が揃ってEEOBにミラン氏を訪問して意見交換したと報道されました。現時点でのミランの影響力の大きさを示しています。
因みに、ミラーとミランの2人は名前が似ているほかにも共通点があります。共にスキンヘッドですので、両者を混同する報道も見受けられます。
(了)